明治新政府は、幕府から引きついだ旧債務の整理と旧武士階級に対する秩禄処分のため、さらに富国強兵・殖産興業を進めるためには貨幣による財政収入を必要とした。また各府県の地方庁も安定した地方財政収入を必要とした。明治初期にはそれを地租に求めるほかなかった。
新政府は明治元年十二月百姓の高請地は農民の所有地とし、土地所有権を認めたが、租税の徴収は当分の間旧慣のままで、年貢免状も旧来の形式を踏襲した。しかし租税徴収率が過重であったので、明治四年廃藩置県のさいに従来定免制であったのを一部検見制を採用したところもあったが、税制の改正は重要な問題であったので、慎重を期した。
地租改正について最初に建議を提出したのは、開成所御用掛神田孝平であった。彼は岐阜の生まれで漢学と蘭学を学んだ旧幕臣であったが、明治四年(一八七一)兵庫県令となった人である。明治三年六月、彼は新政府に対して「田租改革建議」を提出し、はじめて地租改正の方向をつぎのように述べた。従来租税は物納であったので、検地・石盛・検見・貢米輸送などの手続きが煩雑で、また、この制度には人民の納税に関する苦労や、貢米輸送中に多くの減耗があり、財政上も米価変動による損失の危険もあるので、速かに改める必要がある。ただちに田地の永代売買禁止を解き、新たに定める地価に準じ、貨幣によって地租を徴収するのがよい。そのためには、各府県に五ないし一〇カ村を管轄する小役所を設け、地租収納ないし土地一般に関する事務をとらせる。小役所は定められた地価を記した沽券(こけん)帳をつくり、管内の地価総計を算出する。これとは別に向う二〇年間の管内年貢米の年平均を求め、これに最近数年間の米平均相場を乗じて管内の地租総額を算出する。地価総計と地租総額とを比較すれば、地租の割合が明らかとなる。各沽券面の土地の地価にその割合を乗ずれば地租が算出される。このような方法によれば、米納にともなう種々の手数をはぶくことができるとともに、財政収入も年々同一となり安定させることができる、とした。
紀州藩家老の家に生まれ、後摂津県知事・兵庫県知事・神奈川県令となった陸奥宗光も、五年四月田租改革を建議した。神田のものとほぼ同じ趣旨であったが、その相違は地価の算定法にあった。神田はまず地主が地価を任意に定め、他人がその価額よりも高い価格で買取ることを希望すれば、それを売る義務があり、地主が売らなければその高い価格を地価とするという土地の市場価格による地価決定を述べた。これに対し陸奥の建議は、土地の肥瘠(ひせき)と交通の良否などにょり、第三者の査定する土地生産力を基準とするものであった。彼は大蔵省租税頭・地租改正局長として、地租改正の事業を進めた。