土地所有の変化

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明治五年の土地永代売買解禁、壬申地券の交付は、当時の地主・小作関係をそのまま認め、地主に土地所有権を与えたのであった。地租改正によって地主が納める地租は金納になったが、小作人から地主への小作料納入は依然として現物納であった。ここにその後の土地所有の急激な変化の基因があり、それを直接にひき起こしたものは米価の変動であった。米価の高騰は地租金納者に有利に作用し、物価の上昇は小作人に不利にはたらく。米価の低落は地租金納者に不利に作用する。自作農は大きな打撃を受けることになるのである。
 明治十年以降の不換紙幣増発による紙幣価値の低下は米価の騰貴となり、十一年一石当り約六円余から十四年の約一一円へと米価は上昇を続けた。土地所有者は米を高く売り、定められた地価の一〇〇分の二・五を地租として納めるのであるから、支出のうち納付する地租の比率は低下し、小作人以外のものはうるおった。農村の購買力は増大して空前の消費ブームを現出したという。
 しかし明治十四年末から始まった紙幣整理により物価は低落しつづけ、米価は十四年の約一一円から十七年には約五円に、十八年には約六円になったが、ふたたび低落しつづけ、二十一年には五円を割る価格となった。二十二年は約六円、二十三年は八円以上となったが、二十四年は約七円に低落し、以降徐々に上昇し三十年になって一〇円台を示した。明治十七年以降の農村の生活は極めて困難な状況となり、十九年までの三年間に全国で抵当流れになった土地は総耕地面積の八分の一、地価にして二億三〇〇万円に達したという。明治二十一年兵庫県では、田の総面積のうち四八・六八%、畑の場合四三・六六%が小作地となり、農家総戸数二二万五三二六戸のうち、自作農は三二・一三%、小作農三〇・五三%、自小作農三七・三四%となった。
 平井村の明治十年から二十二年、三十三年への土地所有面積別農家構成を表10によってみると、二十二年までは三反以下の所有者で土地を喪失するものが多く五反以上二町未満の所有者は減少した。二町以上層は所有地を拡大している。農家数の動態をみると、二町を境にして二町~三町層は上昇し、二町以下の各層は土地を喪失し、土地を所有しない農家は二〇戸から二七戸へ増加したとみられる。三十三年には三町歩以上の所有者が、二十二年の四戸から八戸に増加したことがいちじるしい変化である。中農所有率は五反から二町歩までの所有者層の所有地が全村の耕地に占める比率であるが、十年から二十二年にかけて大きく減少した。入作率は他村の地主による所有面積の全村耕地に対する比率であるが、十年から三十三年まで上昇している。
 

表10 平井村土地所有面積別農家構成

反  別明治10年22 年33 年10~
22年
22~
33年
  %  % % 戸  戸
100反以上
 75 〃
 50 〃12.212.624.4
 40 〃12.212.648.9↑1
 30 〃25.124.4↑4
 20 〃510.937.736.7↑2↑4
 10 〃510.9410.2613.3↓1↑4
 5 〃817.3512.948.9↓4↑6
 3 〃36.5410.236.7↓3↑5
 3反以下2350.01948.72146.7↓7↑4
土地所有者計46100.039100.045100.0↑6
総 戸 数66
中農所有率29.419.929.8
入 作 率6.67.58.4

山崎隆三著『地主制成立期の農業構造』による〔注〕明治10~22年,22年~33年欄は農家数の動態を示す   
↑2は上層へ2戸が上昇,↓3は下層へ3戸が落層することを示す


 
 これは一村の土地所有の変化であったが、武庫郡および川辺郡南部について研究した山崎隆三の『地主制成立期の農業構造』によりながら、いま少し一般的にみることにしよう。表11の明治十年前後と二十年前後の欄は同じ一五カ村の合計であり、三十年前後は七カ村、四十年前後は六カ村のそれぞれ合計である。
 

表11 武庫・川辺両郡の土地所有別構成

反  別明治10年前後20年前後30年前後40年前後10~20年
  %  %  %  % 戸
100反以上10.210.7↓1
 75 〃30.741.010.710.7
 50 〃81.871.763.864.3↓1
 40 〃102.3153.742.610.7
 30 〃184.0133.263.853.64
1
 20 〃388.5327.8127.71712.2↓7
 10 〃8018.07117.43119.92316.4↓16
 5 〃9220.77217.62012.82417.1↓36
 3 〃429.44611.3138.3117.9↓32
 3反以下15334.414836.36340.45136.4↓37
土地所有者計445100.0408100.0156100.0140100.0
中農所有率(平均)34.127.722.324.2
入 作 率(平均)6.114.626.117.1

山崎隆三著『地主制成立期の農業構造』による〔注〕10年~20年の欄は明治10年前後から20年前後への農家の動熊を示す


 
 明治十年前後から二十二、三年にかけて、五反から二町未満の中農層の戸数は一七二戸から一四三戸に減少し、中農所有率は三四・一%から二七・七%へと五~六%の低下を示した。のみならず、二町以上四町以下の戸数も五六戸から四五戸に減少した。土地所有者総数は三七戸の減少となった。しかし四町歩以上の土地所有者は二二戸から二六戸に増加した。土地所有規模別農家数の動態としては、三町~四町層の四戸が四町~五町層へ上昇したほかは、すべての層において落層するものが多かった。
 二十年前後から三十年前後にかけては、五反から二町未満層の中農所有率は二二・三%へとさらに低下し、戸数の比率は三五・〇%から三二・七%へ低下し、二町以上三町未満層も、三反~五反層も同じ傾向を示している。これに対し、三反以下層の比率の増大は土地を喪失していくものがこの層に滞留したものとみられる。三町以上の比率の増加は、土地取得者の増加を意味し、入作率の増大は土地の取得が一村内にとどまらず他村の土地にも及んだことを意味している。このようにして明治中期に寄生地主制が成立していった。
 三十年前後から四十年前後へかけてのいちじるしい特徴は五町以上層の土地所有者比率が増大し、この層へ土地が集中したことを意味する。このことを明らかにするために、四十年前後の欄の六カ村のみについて十年前後、二十年前後、四十年前後の中農所有率をみると、四〇・一%、三三・九%、二四・二%と低下し、中農層の土地喪失のはげしさを示し、他方入作率は四・九%、七・〇%、一七・一%と増大し、他村地主の手に土地が集積されていったことを示している。
 以上は要するに、五反から二町未満の中農層およびその下層が土地を喪失し、土地を取得するものは四町以上層に上昇していき、三十年代には五町以上層が増加したというのが一般的な傾向であった。