慶応四年一月三日旧幕府軍は鹿児島および萩藩兵と鳥羽・伏見で戦い、戊辰戦争が始まった。この時川辺郡多田神社の家人八一人は御所の警護を命じられたという。ひきつづき江戸征討東北・北越の内乱、凾館の戦いが終わる明治二年五月十八日までの一年半、幕府・東北諸藩軍と戦ったのは、西南雄藩を主力とする諸藩の連合軍であった。
新政府は慶応四年一月十七日、太政官に海陸軍課を設け、明治二年七月八日にはこれを兵部省とし、新政府の軍令・軍政の統轄機関としたが、直属の軍隊はなく各藩主に命令するだけであった。新政府の最初の軍事的課題は直属する兵力による近代的国軍の創出であった。多田隊の一部三六人は奥羽・北越の討伐軍にも参加したが、二年七月解散を命ぜられ帰村し、各藩の兵力も所属の藩に帰っていた。これらの藩兵力は討幕には必要であったが、新政府の中央集権化には障害となっていたので、諸藩の兵力の整理は大きな課題であった。
国軍創設に関して、フランスの陸軍制度を研究した兵部大輔大村益次郎は、庶民の徴兵制を建議したが、同藩の長州藩士に「西洋かぶれのたわけ者」とののしられ、明治二年九月暗殺された。彼の頭には、高杉晋作が身体強健な浪人や庶民を組織して、倒幕に重要な役割をはたした奇兵隊があったのである。明治三年八月ヨーロッパから帰国した山縣有朋も、徴兵制を企図したが、当面は新政府の武力強化が必要であったので西郷隆盛を説いて、四年二月薩長土三藩の兵八〇〇〇人を上京させ御親兵を編成した。この兵力を背景として一挙に廃藩置県が断行されたことは第一節でふれた。ここに幕藩領主制は完全に消滅し、全国統一支配の天皇制が成立した。