徴兵忌避とその対策

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徴兵免役者は全国的にも多く、明治九年についてみると、二〇歳壮丁の総員二九万六〇八六名のうち二四万二八六〇名、八二%が免除者であり、第四軍管(大阪)では五万六七三六名のうち四万九九一一名、八八%が免役で、全国六軍管のうち最も高い比率であった(鹿野政直『日本軍隊の成立』・大久保利謙編『近代史史料』による)。このなかにはかなりの徴兵忌避が含まれていたものと思われる。農民は分家や養子という方法で最初から徴兵を忌避する者が多かった。
 徴兵令は明治十二年十月改正され兵役年限を常備三年・予備三年・後備四年とし、免役範囲は縮小された。明治十三年初め、戸長役場に対し、「明治十年以後仝十二年以前徴兵令適令ニテ旧徴兵令ニヨリ免役処分ヲ受ケタル者昨十二年改正徴兵令発行即チ客年十月廿七日以後本年四月十日以前ニ名称ヲ罷メタル(例えば養子になっていたものが離縁した)者ハ本年徴集候旨其筋ヨリ達」しがあったので、戸長は安政三辰年三月より安政六未年二月末日までに出生の者の名簿を整え、同時に国民軍籍一七歳以上四〇歳までの者の取調書をつくった。
 徴兵忌避は依然として多く、その対策を根本的に考える必要があった。陸軍卿大山巌は明治十四年九月二十七日付の建議において、戸籍法を改め戸長限りで戸籍を加除する法を廃すること、および逃亡失踪(しっそう)の者を処分する事の必要を述べている。
 前者の説明において、戸籍が精密でないために故なく兵役を免かれる者が多いが、これは明治十一年に戸長職のなかに戸籍の加除をかかげ、府県庁の管掌を解除したことに一つの制度的原因がある。戸長は人民の公選であるから常に人望を得ることに汲々としており、戸籍記載を改ざんしたり、「徴兵規(忌)避策ノ術ヲ助クルヲ之レ勤ムルカ如キ情」さえある。たとえば、年齢の数字を改めることなどは戸長の手で容易におこなうことができる。年齢五〇歳未満の者の養子は徴集されることになったので、養父自ら戸長役場に行き、自身の年齢を戸籍編成のさい誤って届出ていたという理由で五〇歳以上に訂正し、その養子の徴兵を免れさせた。「五十歳以上ノ者ノ養子ノ名称ニ由リ免役トナル者最モ多ク、之ヲ昨十三年ニ比較スルニ本年ハ本国ニ於テ一万千余人ノ増加アリ、此景況ヲ以テ将来ニ推考スルとき(とき)ハ徴集人員ノ竟ニ全ク尽クルニ至ルモ亦未ダ知ルヘカラス」と記している。兵庫県警察史によれば兵庫県の場合は表12のとおりであった。明治十二年の免役および猶予者の数は、壮丁総員の九六・六%にのぼっている。
 

表12 明治12年県下の壮丁と免役・猶予者の状況

年 次壮丁総員
 A
徴  集  人  員免 役猶 予B+C/A
常 備補 充その他BC
明治12年12,714433 ?43312,28196.6
138,9221,2013891,5907,13819482.2
1411,60084011795710,47017391.8
159,9787922231,0158,81814589.8
1611,1859472481,1959,9533789.3
1711,7781,1498922,0419,6627582.7
1815,4231,1205,9307,0501,7676,60654.3
1916,8147217,1987,9192,5986,29752.9
2029,6271,4704,2445,71412,15111,76280.7
2117,3167713,7864,5576,9305,82973.7
2213,7716873,321224,0308,0991,64270.7
239,9416884,746155,4493,2701,22245.2

『兵庫県警察史』による


 
 また、後者については、徴兵令発行以来徴兵忌避のため逃亡失踪の者年々増加し、「昨十三年ノ調査ニ拠レハ全国ニ於テ一万〇三百六十人ノ多キニ至」った。毎年検査の前に適令の者百方忌避の方法を求めても得られなかったとき、あるいは逃亡しあるいは一時踪跡をかくし、後に帰宅する者が多くなった、と述べている。