新政権の教育行政の端緒

55 ~ 56 / 620ページ
このような教育制度をうけついだ明治新政権が、まず着手しなければならなかったことは、これを新しい教育制度に改めることであった。明治元年(一八六八)、東京に医学所・昌平学校・開成所を、京都に皇学所・漢学所を設置した。翌二年には、昌平学校を大学校と改め、また医学所を医学校に、開成所を開成学校に改めた。さらにこの年の十二月には、大学校を大学とし、開成学校を大学南校、医学校を大学東校と改めた。この大学は第一に教学の理念として皇学思想をかかげ、第二に大学は単なる教育機関ではなく、あわせて、明治新政権が全国の教育行政を統一的におこなうための中央教育行政機関とされた。しかしこのことは、新しい理念による新教育行政の樹立というよりも、むしろ教育を藩権力の支配からすみやかに切り離し、新政権の支配下に収めようとする点に意義があった。
 大学という新しい教育行政機関のもとに、初等教育機関として小学校をつくることになったが、その方針はすでに二年二月五日、各府県に対して、書学・素読・算術と忠孝の道を教えるため、小学校を設けること、と示されていた。翌三年の「大学規則並中小学規則」は、後の学制の基本構想を示すものであるが、しかしこの段階では、初等教育を藩の力から新政権の管轄下に収めようとすることに、重点がおかれた政策であった。