四年の共立小学校規則をもとにして、五年八月二日「学制被仰出書」が、翌三日には「学制」が布告された。これは徴兵令・地租改正とともに維新の三大改革といわれるものの一つである。従来設けられていた学校は、いったん廃止し、学制にもとづく学校を設立することとなった。つぎに学制を中心とする新制度の要点を述べよう。
一、学区のこと。全国を八大学区に、一大学区を三二中学区に、一中学区を二一〇小学区に分け、一小学区に小学校を一カ所おくのであるから、一大学区の小学校の数は六七二〇校、全国で五万三七六〇校になる。しかし、中学区以下の区分は、地方官(県令)がその土地の広狭、人口の疎密を計り便宜を以て郡区村市等により区分することになっていた。明治六年二月九日の学制追加によって、中学区は人口約一三万人、小学区は約六〇〇人という基準が定められた。
二、学区取締のこと。一中学区に学区取締一〇ないし一三名を置き、一名に小学区二〇ないし三〇を受け持たせる。学区取締は、学校を設立維持し、人民を勧誘して就学させ、小学区内の学務を担当する。一般人民の子弟は、男女とも小学校に入学しなければならないが、六歳以上になっても就学しないときは、その理由を学区取締に届け、学区取締は毎年二月区内の就学状況を調べ、地方官を通して四月中に督学局に報告しなければならない。
三、小学校のこと。初級の小学校教育は、人民一般が必ず学ばなければならない。小学は、尋常小学・女児小学・村落小学・貧人小学・小学私塾・幼稚小学(「男女ノ子弟六歳迄ノモノ小学ニ入ル前ノ端緒ヲ教ルナリ」)の種類に分ける。尋常小学は、上下二等とし、それぞれ八級より一級まであり、各級は六カ月で終わり、上級に進む。六歳で入学すれば、卒業は一三歳半である。その間に、下等八級より順次、つぎの学科目すなわち、綴字・習字・単語読方・算術・国体学口授・修身口授・単語暗誦・会話読方・単語書取・読本読方・会話暗誦・地理読方・養生口授・会話書取・読本輪講・地理輪講・物理学輪講・書牘(しょとく)・各科温習・細字習字・書牘作文・史学輪講・細字速写・罫画(けいが)・幾何・博物・化学・生理を学び上等一級を終わって卒業試験を受け、卒業する。これが明治六年の小学教則の概要である。
四、教員のこと。小学校教員は男女とも二〇歳以上で、師範学校卒業免状あるいは中学免状を得たものであること。ただし、これは数年後におこなうことになる。
五、学費のこと。教育は「人々自ラ其身ヲ立ルノ基タルヲ以テ其費用」に関しては、小学校経営に要する経常費の「全費ハ生徒之ヲ弁スヘキモノナリ」(九三章)とし、生徒の負担を原則とした。しかし他方、小学校教育は、国民皆教育をめざした国の行政としておこなわれるのであるから、費用を生徒に全額負担せしめることは困難であった。そこで小学区に法的主体性を付与し、これに学校設立維持費用の調達を義務づけ、学区はその調達の方法を自主的に決定できることとし、「民費ニ委ス」ことにしたのである。小学区は、自治的団体と考えられていたと思われる。なお、国は「官金」を府県へ委託するという形式で補助金を交付することになっていた。このように、地方学区の民費で設立維持し、文部省小学委託金で学資の幾分かを扶助するものを、公立学校と称したのである。なお七年十月九日から、委託補助金を学務専任吏員の給料にあててはいけないことになった。
六、私学私塾のこと。私学私塾も許されることになっていた。私学として宝塚市付近に設立されたものには、伊丹町の伊丹学校(学校主小西新右衛門)と、猪名寺村の有明学校(小林藤左衛門)があった。川面村の川面学舎も、六年九月に「私学開業願書」を提出した。
さて、学制でいう学区は、まったく机上の計画であって、そのまま実現することはできなかった。じっさいには、明治四年に設けられた戸籍区としての小区、あるいは旧村、または旧村の連合が小学区となって、同六年以降に小学校が創立されたところが多い。各小学校には世話掛がおかれた。最初は寺院の一隅や民家を借りて校舎として使用し、漸次独立の校舎を建築することになったが、それに要する建築費や校舎の位置に関して、旧村の間で問題が生じ、小学区の離合集散がたび重なった。明治九年までに全国に約二万五〇〇〇校、兵庫県では、八三〇校が誕生した。