学制下の小学校が、各地に設立されていった明治七、八年ごろの、明治政府の行政の末端機構は、戸長制と小学区制とであったが、教育行政上の小学区制よりも、一般行政上の戸長制の方が重要視され、それが確立するように推進された。しかし区長と戸長とを首長とする新制度の大区小区制と、新政権が無視しようとした旧来の村の生活協同団体的な実態および旧村の自治意識との矛盾が、現実にあらわれてきた。旧村に対し区長は無力であり、戸長は統率力を欠くという状況が表面化するに及び、地方行政機構は再編成される必要に迫まられた。明治十一年のいわゆる三新法はそれをめざしたものである。町村の自主・自立性が、三新法によって認められることになったが、しかしその町村は旧村ではなく、府県―郡―町村という新しい機構の枠のなかに位置づけられ、貢租徴収や民費課出などに利用されるような、地方行政の末端機構としての新しい町村であった。大小区制下の区長・戸長制から、三新法下の郡長・町村戸長制への再編成にともない、小学区制もそれに統合されることになった。学制から明治十二年の教育令への変化の背景には、このような地方行政機構の再編成があったのである。