この時期は、教育制度に関する保守派と開明派との意見が対立していた時期でもあったが、学制の画一・干渉主義・学費賦課制に対して自由主義的な内容をもつ教育令が、十二年九月二十九日布告された。その内容の主要な点は、つぎのとおりである。
(一)三新法によって成立した町村ごとに、あるいは数町村連合して公立小学校を設置すること。すなわち、学制下の小学区はなくなり、一区一校の原則もなくなった。(二)小学校の設立維持は、町村あるいは町村連合の責任となった。学制下においては、受業料負担が原則であったが、教育令では授業料の徴収は「其便宜ニ任スヘシ」となり、小学校は町村の公費によって設立維持しなければならなくなった。(三)学区取締は廃止され、町村人民の選挙した学務委員をおくことになった。これは小学区が一般行政区画としての町村に編成替えされたことにともなう変化であり、学務委員は町村における教育行政の機関となった。(四)学齢児童を就学させることは父母および後見人の責任として、小学校教育を義務教育とした。(五)小学校の就学期間は八カ年とするが、最低四カ年、実質上一六カ月以上とした。(六)公立小学校を補助するため、文部卿より毎年補助金を各府県に配布する。また「町村費ヲ以テ設置保護スル学校ニ於テ補助ヲ地方税ニ要スルトキハ、府県会ノ議定ヲ経テ之ヲ施行スルコトヲ得ヘシ」とした。
小学校の設立維持が、三新法下の町村の自主・独立性に委(ゆだ)ねられ、その他の項目においては学制が一歩後退したという意味で、自由教育令と俗称されたのであったが、しかし、一般行政から独立していた学制下の教育行政機構は、教育令により一般行政機構に統合されたのであって、政府の意向を教育に浸透させうる系統組織が成立したことになる。ただ、しばらくは町村の自主性を認めたにすぎないのである。