自由教育令は種々の影響をもたらしたが、その前後の事情を明治十二年の兵庫県年報は、つぎのように記している。
明治九年合県以来、管下学事の方向を一致させるために明治十年訓導・学区取締等を招集して教育会議を開き、公立小学の教則を定めた。ついで学区および学区取締の配置を改め、また学費支出の法を定めたが、やや強引な進め方であったので、十一年末期に至り自由教育を希望する風潮が生じた。そこで明治十二年前期には「稍々(やや)教育ノ方針ヲ転シ、簡易教則二類ヲ発行シ、地勢人情ニヨリテ」選択の自由を許した。また「学区ノ分合、訓導ノ配置、学費支出法等大抵人心ノ帰向ニ任セ」ることにした。ところが、同年末期教育令が発せられて後は、「人心頓(とみ)ニ廃弛(はいし)シ或ハ緩慢自棄」の傾向が現われた。ここで教育に人心をつなぎ、その進歩をはかるためには、一方で普通教科を簡易にし、他方で就学をきびしくしなければならない。そして農工商の職業に教育が必要であることを広く知らせる必要を述べている。学費に関するつぎの点も重要な指摘である。各小学校は其組合町村の協議費と文部省の補助金および地方税の補助金により運営されているが、町村人民の負担する学費を減少しようとする傾向が強く、これが学校のふるわない基本的な原因である、と。
このような状況の背後には、明治七年の民撰議院設立建白を契機として、全国的に拡大した自由民権運動があり、兵庫県でも淡路や丹波の動きは活発であった。また他方、明治政府が西南戦争などにおいて引き起こしたインフレーションによる社会的動揺があったのである。