当初の兵庫県は、川辺・有馬・武庫・菟原・八部の五郡で、その人口約一九万七五〇〇人であったが、明治六年二月これを一中学区二九〇小学区とした。各小学区の人口は、四〇〇人から九〇〇人程度であったが、十二月には一六二小学区に改められたので、各区の人口は約一二〇〇人となった。八月現在で一四五の小学校ができたが、この年の終わりには、八部郡に三九校、菟原郡に二一校、武庫郡に一四校、川辺郡に四五校、有馬郡に三六校、ほかに家塾が二カ所、まだ許可を得ていないもの五校、合計一六二校になった。明治七年には五小学区が増加した。兵庫県では、学校の受業料は「其校ノ適宜ニ任ス」こと、「学費課賦ハ其学区内ノ会議ニ由テ其便ニ付ス」ことにし、また教員をえらぶことにも県庁は強いて関与しなかった(受業料は、「学制」第一〇〇章に「生徒受業料ヲ……」とある)。
当時は寺院の一隅や民家を借りて校舎とし、授業の方法などもきわめてふじゅうぶんなものであった。しばしば区長が兼務した学区取締と世話掛とが教員をえらび、兵庫・神戸両港内に設置された試験所で、学力試験を受けさせた。しかしこのような教員は正規の教育を受けず、知識もふじゅうぶんで、教授の方法も未熟であったので、県は教員須藤武広ら二名をえらび、約一カ月間東京師範学校で教授方法を勉強させ、管下の教員に伝習させた。また伝習所を設け教員を養成した。
学校の休日は、一・六の日と定めていたところが多かったが、明治七年四月より日曜日を休日とすることになった。俸給は、小学校教員の場合一カ月二円から一二円の間で、かなりの幅があった。学区取締の給料は、その区内より五円以下三円以上を出し、文部省委託金より一人に付三円以下一円五〇銭以上を、その区の大小により助給した。