長尾地区の小学校

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山本村と平井村とは連合して、明治六年山本村本郷の東端の一寺院内に、金岡林平を教師として山本小学校を設けた。生徒男五二人・女二三人であり、翌七年は教員三人、生徒男六五人・女二一人であった。明治十二年十二月校舎を新築して、長尾小学校と改称した。
 荻野・鴻池両村は、荒牧・新田中野の両村と連合して、新野小学校を設けたが、八年には荻野・鴻池両村が荻池小学校を鴻池村慈眼寺内に設け、同村医師木村立元が教職についた。教員一人、生徒男三九人・女九人、翌九年は教員二人、生徒男二二人・女五人であった。荻池小学校は一時長尾仮分校と称したようであるが、荻野村は、さきに双野小学校をつくっていた新田中野村の分村東野および山本村の分村大野新田と連合して、三野小学校を設けた。鴻池村は新田中野村と連合して、中野村の北端村社の東隣りに校舎を新築し、致道小学校を設けた。十八年に三野小学校は廃され、荻野村ならびに東野分村の生徒は、致道小学校に移り、大野新田の生徒は長尾小学校に移った。
 さて、山本・平井・満願寺村(明治十五年現在戸数四戸、人口九人)三カ村の長尾小学校と、荒牧・中筋・中山寺三カ村の摂陽小学校とは、十八年五月二十八日廃されることになり、両校合併して勤成小学校となった。しかし校舎新築につき意見がまとまらず、長尾校舎を東教場、摂陽校舎を西教場として使用した。二十年四月には、勤成小学校はふたたび東西に別れ、長尾簡易小学校と摂陽簡易小学校となった。二十四年十月にいたり、県達により両校は廃され、一村一学校としての長尾尋常小学校となり、山本・平井・荻野・中山寺・中筋・荒牧・鴻池の各村を含む長尾村が学区となった。したがって、鴻池・荻野両字村は、稲野村立致道小学校の校区から分離され、両村の児童は長尾小学校へ通うことになった。新校舎が完成し、移転したのは二十八年九月二日であり、東教場は避病院になり、西教場は競売されることになった。