西谷地区の小学校

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北部山間地域には、大原野村を中央にして、東に長谷村・芝辻新田、西に波豆村、南に境野村・玉瀬村・北畑村・南畑村・南畑北畑立合新田、北に下佐曽利村・上佐曽利村・香合新田がある。この地域には学校のことに関する史料が数多く残っている。
 明治六年十月十七日、大原野・境野両村が連合して帰来(皈来と書くことが多い)小学校を、大原野村正覚寺本堂を借受けて開いた。じっさいに「開業」したのは十一月十四日であったが、それにさきだって、十月十五日ないし十七日付で入学願を出したものは、大原野村六六人・境野村一三人であった。しかし事実上の就学者は五四人で、つぎの諸級に分けられた。下等八級男一九人・女七人、七級男一六人・女一人、六級男四人・女一人、五級男六人。学校費用は一カ月一三円、学資取立方法は戸別割四銭、石高割で五厘となっている。大原野の僧侶藤崎壮誉(月俸三円)が教師となり、同じく僧侶藤井光輝(同二円)が助手となった。明治六年の学区取締は、高平村のうち木器村岡村郡蔵、学校世話掛は古家新右衛門であった。七年二月には篠山藩士であった牧野利和を首席教員(月俸八円)として迎えた。七年七月には古家新右衛門が戸長になったので、龍見利兵衛が世話掛となった。

表16 西谷地区小学校の変遷


 明治六年にはまた、玉瀬・南畑・北畑・立合新田連合立の首尾小学校が、南畑村の寺院で、福本庄右衛門を学校主として発足した。
 波豆村は同年九月戸長石田宇平治・世話掛奈良平邦三郎連名で波豆小学校開業願書を提出した。場所は普明寺、教員は福永房之介、学校費用概略一カ年二一円、校則としては入学日毎月二日と十七日、課業午前八時より午後三時まで、一と六の日は休業などの項目を記している。上佐曽利村には同村・下佐曽利村・香合新田および波豆川村連合で商音小学校が開校した。しかし間もなく波豆川村は大舟小学校を開いた。商音小学校は、その後校舎を新築したようで、下佐曽利村は字椿谷の山二反三畝二五歩を売り、新築費にあてることを決議している。明治八年の商音校世話掛は松田佐兵衛であった。七年には長谷村普光寺に肝黌(かんこう)が設立された。