十五年前後の小学校

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さて、南部小学校は明治十四年に、大原野・境野・波豆・長谷・芝辻新田五カ村協議の上、正覚寺庫裏を仮教室として、校舎を新築し、長谷・波豆の二校を合併することにした。また、この年十一月に本校としては初めて、学区内境野村出身の首席教員谷新太郎を迎えた(月俸八円)。十五年には南部校の新築がなり、初等・中等の二科をおき、両科を通して六年間の修業年限とした。この時点における西谷地区の小学校と学区は、つぎのとおりである。第二一番学区、商音小学校(上佐曽利・下佐曽利・波豆川・香合新田の四カ村)、第二二番学区、南部小学校(大原野・境野・波豆・長谷・芝辻新田の五カ村)。明徳小学校(切畑村・玉瀬村の二カ村)。
 明治十五年以降の兵庫県における男・女就学率は、十七年男子六一・二%女子三四・一%、十八年五七・三%と三一・九%、十九年五六・〇%と二七・六%、二十年五五・五%と二九・八%で、男女合計では四三・三%であり、男・女とも不就学者が増加した。