学費負担の困難

88 ~ 89 / 620ページ
明治八年ころから、学区による小学校維持の容易でない点が指摘され、同十年にはとうてい民力によって維持することが困難となった。これは、明治十一年三新法下の郡長―町村戸長制へ小学区制が統合される一因であった。
 帰来小学校は明治十一年十月南部小学校と改名したが、十五年には現在地に校舎を新築することになった。一月十五日、南部小学校新築委員は、「南部小学校新築功(工)事請負規則」をつくり、大原野・境野・波豆・長谷・芝辻新田の各村が相談して、新築入費を十九年までの四カ年賦で徴集することにした。ただし最初の協定は、十五年十二月に改め、負担割合をかえた。
 学区内の人々は、自らの努力で、新校舎を建てたが、十五年以降の米価低落は事情をいっそう困難にした。兵庫県年報は、明治十五年以降学区の資力が乏しくなったことを述べ、十七年には「協心戮力(りくりよく)ノ念慮ニ乏シキ当時ノ民情止ムヲ得サルニ出テタリト雖モ其(学区)小弱ニシテ百般学事ニ要スル費用支持ニ堪ヘサル者多ケレハ万止ムヲ得サル者ヲ除キ務メテ之ヲ合併シ、以テ永遠ノ基礎ヲ固定セントスル」必要を述べている。