「学制」下における小学校への補助は、文部省が補助金を県へ委託したものであって、これは十二年九月の自由教育令においても、その第二八条によって継続された。ただ、それまでは小学補助金支出の方法が比較的自由であったが、教育令第二九条第三〇条および第三一条によって「支消の目ヲ改メテ小学校教員給料、同書籍、器械費及ヒ学校修繕費ノ三項ト定メ」られた。しかし、十三年十二月の教育令改正にいたり、国の財政窮乏を理由に第二八条以下を削除し、国の補助金は廃止された。他方、自由教育令第二五条に規定された地方税小学校補助金は、改正においても変わらなかった。すなわち、国の負担を府県に肩がわりさせたのである。
南部小学校に対する文部省補助金は、十三年一~六月分九円二一銭三厘、七~十二月分五円三五銭六厘、そして十四年一~六月分三円三一銭六厘を最後になくなった(表26参照)。そして地方税小学補助金が、十二年七~十二月分三〇円二七銭四厘(内五円は校数割、一四円十三銭八厘は生徒割、一一円一三銭六厘は人口割)を初めとして、十三年一~六月分二八円七二銭九厘、同年七~十二月分は三九円二一銭一厘………と続いた。この第一回分は、十三年三月二十六日に郡長から、南部小学校学務委員龍見利兵衛と境野村戸長小仲弥七・大原野村戸長古家新右衛門の三人が連名で受け取っている。第二回以降は、境野村戸長の名はみえない。十六年七~十二月分、三一円二八銭五厘(内、九円八五銭八厘は校数割、一〇円六銭四厘は戸数割、一一円三六銭三厘は収入割)は、十六年十二月二十八日に郡役所より学務委員上畠仲右衛門が受け取った。そしてつぎの計算がおこなわれている。三一円二八銭五厘を南部校学区内戸数三五九戸で割る。一戸当り八銭七厘一毛四糸五、これを賦課額と書いている。この金額に学区内各村の戸数を掛ける。大原野村は一八四戸であるから一六円三銭五厘、境野村は六二戸で五円四〇銭三厘、波豆村は五五戸で四円三五銭七厘、長谷村五七戸・芝辻新田六戸、計六三戸で五円四九銭となる。それらの金額が、各村割の賦課額である。
十七年の地方税小学補助金は、一~六月分が四三円、七~十二月分は三九円六二銭三厘であったが、この時から賦課方式が変わり、この金額の六分、二三円七七銭五厘は戸数割(これを区内戸数三七八戸で割ると一戸当り六銭二厘八毛九糸)、四分に相当する一五円八四銭八厘は地租割(これを区内地租金三〇五三円二〇銭八厘に割る。一円に付五厘一毛九糸一)となった。南部小学校収入のうち、地方税小学補助金の占める割合は、十三年二〇・四六%、十四年二〇・四四%、十五年四・三九%、十六年一二・八%であった。