さて、明治十年代後半の学校をめぐる情勢は、どのように展開したであろうか。明治十四年十一月、政府は紙幣整理のため増税および支払節減の政策すなわち世にいう松方財政デフレ政策を発表して、実行に移った。
明治十六年以降の文部省年報は、その状況をつぎのように述べている。「前年(十五年)以来物価ノ低落ニヨリテ金融ヲ否塞シ加之各所ニ旱災アリ。民間ノ経済一時ニ疲弊ヲ告ケ………各地方ノ実況ヲ見ルニ或ハ既ニ計画セシ建築ヲ中止シ或ハ教員ヲ省減シ其俸給ヲ殺(さ)キ甚キハ学校ヲ閉鎖スル等ノモノナキニ非ス」と。また兵庫県において、「其町村立ニ係ル学校費及学務委員給料旅費等、凡(すべ)テ町村費ヲ以テ支弁ス然レトモ怠納者多クシテ収支償ハス太(はなは)タ困難ノ情勢」であった。県会では、十七年度教育費を前年度より一万四六八円二〇銭減じて八万三七五五円におさえるなどという有様で、郡区町村教育補助費も、原案額六万円を五万円に減じ、しかも不認可のまま施行されることになった。十年代後半はまことに困難な情勢となったのである。