学校学事の不振

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学制発布以来、種々の問題があったにもかかわらず、ともかく教育は年々普及の勢を示してきたがこのころになって民力の衰弱いちじるしく、教育に大きな影響を与えるにいたった。明治十七年には、教員数以外の数字はほとんど減少して小学校に関しては、すべての点で不振が目立つにいたった。宝塚市域においても、良元地区・小浜地区・長尾地区における、十八年の小学校の廃校合併はそのあらわれであった。
 女子教育に関しては全国的に不振で、全国女子の就学は男子就学の半数にも達しない状況であったが、兵庫県でも十七年の就学率は男子六一・二%、女子は三四・一%にすぎなかった。
 貧困家庭の児童の教育は、小学校開設当時からの問題であったが、十年代後半にはその問題がふたたび大きくなった。しかし兵庫県では貧困児童就学に関して、巡回授業家庭教育などの方法はまだとられていなかった。
 学業に関しては、読書などは大いに進歩したが、珠算・作文・理化などは振わなかった。これはまったく学区の資力が薄弱で、教員の数や配当がふじゅうぶんであり、また器械・模型・標本類の未整備によるところが大きかった。初等科の教育諸条件が整備されていないのに中・高等科の設置を望むというのが一般の状況であったからである。
 教員の需要に対して、師範学校の卒業者が少なく、試験によって教員免許状を取得した者に頼らなければならないような事情にあった。また免許を有する者も、期限がきたとき検定を再出願する者が少なく、出願しても合格者は半数前後しかなかった。いま一つの問題は、「教員ノ改良」である。県は小学校教員伝習所を設け、各郡の教員を二、三名ずつ集めて講習を受けさせ、これらの者が帰任して伝達講習をおこなうという方法で教員の質を向上させることに努めた。