維新政府の成立と会計基立金

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将軍慶喜の大政奉還によって江戸幕府は倒れ、新たに明治新政府が樹立されたとき、新政府の政策担当者の頭を悩ませたのは、この新政府樹立のための財政資金をいかにして調達するか、という問題であった。廃藩置県にいたるまでの維新政府は、旧幕府所領を直轄地として支配するにすぎず、その経済的基盤もまた、幕府体制下における貢租体系と三都の特権的株仲間商人に依存しなければならなかった。しかも樹立されたばかりの維新政府はさしあたっての急務として、鳥羽伏見の戦をはじめとする佐幕派勢力討伐のために多額の戦費を必要とした。それは結局のところ、政府の借入れによってこの急務をしのがざるをえなかった。そのために政府はまず慶応四(一八六八)年一月に「会計基立金三百万両」の徴募を布達したのである。
 この会計基立金とは、「御基金」とも書かれてあり、「王政復古、国威挽回(ばんかい)の御基を立てさせられる基金」という意味で、明らかに維新の大業達成のための資金という趣旨より生まれた名称であった。この基立金は同時に商法司・商法会所とともに、由利公正の建議した方策で、かつて福井藩の財政建てなおしのさいにとられた「物産総会所」方式を、そのまま全国的規模に拡大しようとしたものであった。
 さてこの三〇〇万両に及ぶ会計基立金が現実にどれほど調達することができたかについては、表27にみるように、総額二五五万両余といわれているが、この応募の中心地域が、京都府を筆頭に、大阪府・西宮・兵庫・伊丹の摂津に、伊勢・近江の近畿諸国と東京府で、倒幕の推進力となった薩長土肥四藩の領域からはまったく応募がなされていない点が注目される。なおここで伊丹とでてくるのは、単に伊丹町のみをさすのではなく、大阪商法司の下部機構として伊丹会計局御用所が設けられ、その範囲は兵庫・西宮を除く豊島・嶋上・嶋下・川辺・武庫・八部・菟原・有馬の摂津八郡にまたがっている。宝塚市域の村々もこのなかに含まれ、伊丹の小西新右衛門がこの伊丹会計御用所の御用掛りを勤めていた。
 

表27 地域別会計基立金応募額

地域金  額比 率
%
京 都 府907,34335.6
大 阪 府749,17329.3
東 京 府406,00015.9
近   江170,2006.7
西宮・兵庫142,8015.6
伊   丹68,0052.7
伊   勢42,3501.7
久 美 浜 県23,9080.9
そ の 他42,0351.6
合   計2,551,815100.0

沢田章著『明治財政の基礎的研究』より