さて具体的に伊丹御用所で会計基立金引受けの懇請が、慶応四年二月から四月にかけて、京都二条城への召集という形でおこなわれ、結局その募集に応じた者は表27に示した地域の有力者たちであった。その範囲は豊島・川辺・嶋上・嶋下・有馬・武庫・菟原・八部の八郡に及び、総数三三五人で、その応募金額は五万二四七〇両で、これとは別に江戸積酒造仲間は一万六〇三〇両を引受けている。このうち判明する表28の二四八人のなかで、伊丹二八人、灘目六二人、鳴尾・今津の一九人と池田一六人も有力な江戸積酒造家であった。その応募金額は伊丹町小西新右衛門や御影村の嘉納治兵衛の各二〇〇〇両を筆頭に、五〇〇両以上が一六人となっている。しかしこれらを除くと、一村一名かせいぜい三名ぐらいまでのところで、だいたい村の有力者か村方地主としての性格の強い者たちであった。そしてその応募金額も二〇〇両以下三〇両までの少額の応募金額であった。
表28 会計基立金伊丹御用所分応募地域と人数
地域区分 | 人数 | 町 村 名 |
---|---|---|
伊丹の分 | 28 | (小西新右衛門・小西四郎右衛門・伊塚吉右衛門・小西茂十郎など) |
西奥の分 | 36 | 千僧(2) 昆陽(1) 寺本(1) 池尻(1) 蔵人(1)安倉(2) 小浜(1) 米谷(3) 安場(1) 生瀬(3) 名塩(3) 切畑(1) 柳谷(1) 山口(2) 二郎(1) 道場河原(4) 三田(2) 尼寺(1) 小野(1) 井草(1) 曲り(1) 藍本庄(1) 大川瀬(1) |
北奥の分 | 31 | 北村(1)加茂(1) 東市場(1) 桜(1) 新稲(1) 池田(16) 広根(1) 佐曽利(1) 川原(1) 酒井(1) 木器(5) 大原野(1) |
灘 の 分 | 62 | 青木(3) 魚崎(4) 住吉(3) 呉田(1) 御影(21) 石屋(4) 八幡(3) 東明(2) 岩屋(1) 新在家(7) 大石(8) 神戸(2) 原田(1) 篠原(1) 上谷上(1) |
塚口村より 鳴尾・今津 | 40 | 塚囗(4) 水堂(1) 守部(2) 次屋(1) 西川(1) 小松(1) 尼崎(8) 鳴尾(5) 今津(14) 越木岩(1) 鷲林寺(2) |
走井村より 豊嶋・嶋上 ・嶋下郡 | 44 | 走井(1) 新免(1) 桜塚(1) 勝部(1) 利倉(1) 戸之内(2) 小曽根(2) 寺内(1) 熊野田(3) 榎坂(1) 垂水(1) 十八条(1) 吹田(4) 蒲田(2) 三番(3) 江口(1) 味舌(1) 岸部(1) 山田別所(1) 佐井寺(2) 蔵垣内(1) 下穂積(1) 八町(1) 鳥養(1) 庄所(2) 富田(3) 福井(1) 郡(1) 道祖本(2) |
西 成 郡 | 7 | 成小路(2) 塚本(1) 伝法(2) 御幣(1) 佃(1) |
〔注〕( ) 内の数は人数
いま表28で宝塚市域の分をみると、「西奥の分」については、蔵人村重助、安倉村弥三兵衛・新右衛門、小浜村太十郎、米谷村米屋忠左衛門・同定太郎・塩田屋夘右衛門、安場村治兵衛、切畑村利兵衛、「北奥の分」については佐曽利村松田屋夘兵衛、大原野村古家屋新右衛門の八カ村一一人であった。このほかに別の資料には川面村米屋善右衛門・同次兵衛の名もあがっているが、表28にあらわれていないところをみると、募金に応じなかったのであろうか。
またこれらの応募金額について判明するのは、蔵人村の重助の場合で、慶応四年四月三日納めの五〇両、同年五月二十四日納めの五〇両の計一〇〇両であった。他の者についても、おそらくこの前後の金額であったと推察されるのである。
なおこの会計基立金は、政府が民間より調達したものであるが、江戸時代の御用金とは異なって、月一歩(年一二%)の利子がつけられていた。その意味で、これは政府の民間よりの借入金としての性格をもっていた。しかし現実には、この基立金を担保に、政府が金札を貸付けていたわけで、この点については後に述べる。