商法会所と太政官札(金札)

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慶応四年二月に京都で会計基立金の徴募事務所となっていた為替方三家(三井・小野・島田)の御用所を建て、同年五月二十八日に太政官札の発行流通をおこなうにあたって、この為替方御用所を商法会所と改称した。ここで商法司の実務をとり、その掛屋頭取兼商法司元締として三井八郎右衛門・同次郎右衛門が命じられた。つづいて五月三十日には大阪商法会所が設立され、鴻池・広岡・殿村・長田など大阪の富豪や三井元之助など一五名を商法会所元締として、その各富豪の手代などを商法司判事に任命した。さらに東京に東京商法会所が設立されたのは、同年九月十二日であった。
 この商法司の職務については、慶応四年五月三日に布達された「商法大意」五カ条によって明らかである。(一)仲間取きめ価格を廃して、できるだけ低価格で売買すること、(二)諸商売の手元金の貸付をすること、(三)諸仲間より肝煎(きもいり)(世話役)を選び、諸株仲間の人数を自由とすること、(四)従来の冥加(みょうが)金を廃して、新しい税法を定めること、などである。つまりその趣旨は幕藩体制下の株仲間を解散し、各種株仲間の営業特権とその因襲を打破して、営業自由の原則を承認するものであった。しかし同時に、封建的制約を全面的に撤廃するものではなく、あくまでも維新政府の主導のもとに、旧来の商工業を掌握するための措置でもあった。
 このようにして政府は商法会所を通して、これまでの株仲間名前帳の提出を命じ、旧来の株仲間をそのまま維新政府が確認するという形をとり、さらに融資を希望する者には、金札で貸付けた。しかしじっさいの融資には、さきの会計基立金を拠出した商人や株仲間、民間人にそれを担保として太政官札を与えた。したがって、一方では政府の発行する太政官札(不換紙幣)の流通の促進をはかるとともに、他方では勧業資金としての活用を広く普及させようとしたのである。
 じっさいに蔵人村重助が拠出した会計基立金は前述のとおり金一〇〇両でその利子は月一歩であった。金額にして一カ年金一二両である。これは会計御用所から支払われた。これを担保にしてうけた融資額は太政官札で受取り月六朱(六%)で一カ年金七両三朱余の利子がつけられた。したがって現実には差引き月四朱の利子を会計基立金の拠出者が受取る仕組みであった。会計基立金と太政官札とは、このように商法会所・御用所を通じて表裏の関係にあり、いわば不換紙幣による由利財政の中核をなすものであった。