商法司管轄のもとに、新政府はまた江戸時代からの酒造株制度を踏襲し、酒造業の掌握に着手した。まず慶応四年五月二十七日に、会計官布達による「酒造規則五カ条」を公布した。そして五月三十日に前述の「商法大意」が出され、すべての商売に対して営業自由の原則と、旧来の冥加金上納の廃止が公表されたにもかかわらず、それは表向きのことで、内実は「猥(みだり)に旧慣を改め、新法を立つるは可ならず」として、むしろ暫定的に旧法を踏襲すべきことを促している。
この「酒造規則五カ条」では、旧酒造株の書換えをもって酒造鑑札とし、その書換料(一時冥加)として旧株鑑札高一〇〇石につき二〇両を徴収することが明らかにされた。この徴収は、当初新政府の直轄地域にのみ限られていた。その後、八月二十日の会計官布達で、はじめて全国一律に一時冥加が一〇〇石につき金一〇両に引き下げられた。そして商法司のもとで、酒造石高の調査取締りがなされた。
つづいて、明治二(一八六九)年十二月には、民部省達をもって「酒造並ニ濁酒造株(にごりざけつくりかぶ)鑑札渡方並ニ年々冥加上納方」が公布された。これによると、一時冥加として一〇〇石につき金一〇両のほか、年々冥加として一〇〇石につき金一〇両を上納すべきことを決めている。すなわちここでは酒造税を営業税(一時冥加)と醸造税(年々冥加)の二本立てとし、それを全国画一に明治二年に設置された通商司の管轄のもとにおき、酒造制度改編への第一歩を踏みだしたのである。この通商司とはさきの商法司に代わって、単に旧幕府領のみを対象とせず、全国的規模で、広く商工業の掌握と殖産興業を意図してとられた措置で、生産者―地方商社―通商為替会社という系列のもとに諸国産物の流通を把握し、全国的商品流通機構の成立を目指したものであった。