宝塚市域の酒造家たち

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以上のような維新政府の酒造政策の展開のなかで、宝塚市域の村々の酒造業はどのような状況であったろうか。
 伊丹酒造業の発展に刺激されて、江戸時代の元禄期には小浜・山本両村には江戸積酒造業のかなりの発展をみせ、なかでも中筋村には二八〇〇石の酒造石高をもつ小池治右衛門が存在していたことは、すでに第二巻で指摘されているとおりである。そして寛政期、江戸積摂泉一二郷酒造仲間が結成されてくるころには、川辺・有馬両郡下の江戸積酒造家で北在郷を形成していたが、そのなかでも中筋村の小池治右衛門や川面村の糀屋(こうじや)市左衛門などは有力な江戸積酒造家として存在していた。しかし近世後期にかけて灘酒造業が発展してくると、中筋・川面・安場・安倉村の酒造株は、灘・伊丹・池田などへ譲渡され、北在郷の江戸積酒造業も衰退の傾向にあった(第二巻四九七ページ参照)。
 明治三年前述の通商司のもとで調査された酒造株鑑札高の所持状況は表29のとおりである。すでに中筋村の小池治右衛門の名は消えうせているが、それでも安場村米屋善右衛門の八六〇石、小浜村の茶木屋太十郎の五七九石の所持状況を示している。そして安場村の米屋治兵衛のように休造している酒造家もあれば、同村の弥之介や中筋村の治(次)右衛門のように、伊丹酒造家より一カ年限りで借株して酒造りをおこなっている者もあり、また大原野村の彦治のように、明治四年には富田村(高槻市)紅屋市太郎へ譲り渡している者もあった。相対的にその造石高は少なく、すでに地酒を主とした小規模な酒造家にすぎなかった。維新の混乱期は、酒造米の購入や酒の販路のうえでも大きく変化しようとしていたのである。
 

表29 明治3年 宝塚市域村々の酒造鑑札石高

村 名酒造家名酒造鑑札石高備     考
安場村米屋善右衛門860石
米屋治兵衛270明治3年休造
     〃226.666
     〃150
米谷村   治三郎375
小浜町茶木屋太十郎579
安倉村   弥之介200伊丹・鹿嶋屋才治郎より借受
中筋村  次右衛門166.6伊丹・加勢屋藤右衛門より借受
大原野村  新右衛門110
   彦 治100明治4年富田村・紅屋市太郎へ譲渡
   竹重郎100

 
 しかもこの時期の酒造鑑札高は、あくまで明治政府による課税対象としての酒造石高であって、現実の仕込高は太政官布告により、明治元年は三分の一造り、同二年は三分の二造りと酒造制限が加えられた。その限り酒造鑑札高は統制基準の石数として生きていた。たとえ酒造営業を休業しても、それは酒造権利として、他の酒造家への一時貸付や譲渡の対象になりうるものであった。

写真42 酒造米高書上帳 明治3年6月   
小浜茶木屋太十郎の分(伊丹市 小西新右衛門所蔵)