明治四年の酒造規則改正と旧鑑札の没収

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しかしこれら地方酒造家の存在を決定的ならしめたのは、明治四年の酒造規則の改正であった。すなわち同年七月に制定をみた「清酒・濁酒・醤油鑑札収与並ニ収税方法規則」であった。この「規則」は廃藩置県の実施にしたがって、酒造制度の全国的画一化をねらったものであり、また冥加金の徴収と造石高制限とを主としていた旧法踏襲の段階から一歩進んで、酒税確保と営業自由化の線を打ち出した点で、まさに画期的な改革であった。
 その内容を具体的にあげると、(一)従来の旧鑑札を没収して新鑑札を公布し、以後造石高の制限をしない。(二)新規に営業免許鑑札の下付を願い出た者は、免許料として金一〇両を納める。(三)免許税と醸造税をきめ、免許税は造石高に関係なく、稼人一人につき金五両、醸造税は売価の五%とする、というものである。これによって江戸時代から所持しつづけてきた酒造特権としての酒造株鑑札が全面的に廃止され、誰でも免許料さえ払えば、自由に酒造業が営業できるようになって、ここに全国的に地主酒造家が輩出してくるのである。しかも他面、酒造業は政府によって酒税の増徴による圧迫をうけるようになり、酒造業そのものも、やがて通商司の管轄から放れてゆくのである。宝塚市域の村々の酒造家もこれを契機に廃業者が続出していったものと思われる。
 なお、明治三十五年に、川辺郡酒造組合が結成されたとき、その組合員は伊丹町一四名、その周辺の村々の酒造家一一名の計二五名であった。そのうち市域に属する酒造家は川面の岡田亀太郎、下佐曽利の二井藤次郎・同秀吉の三名である。岡田家については前掲表29の安場村の米屋一統であり、また下佐曽利の二名については、おそらく明治四年以降の地主酒造家であろうと推測される。いずれも地酒として周辺地域を販路とする酒造家たちであった。