明治元年十月、東京遷都にともない、東京に駅逓本司が設けられ、二年五月には京都駅逓司が廃止された。しかし駅逓司役所をおき、駅吏助郷総代の名称を廃して伝馬所取締役あるいは駅問屋役人などと改称し、あるいは駅法改正をおこなっても、所詮それは旧幕時代そのままを踏襲したにすぎず、根本的改革になり得なかった。したがって各所において旧慣にこだわり、あるいは私腹をこやす不正行為が続出し、混乱をきりぬけることができなかった。
そこで明治二年五月に、継立人馬公用定賃銭を元賃銭の一〇倍にひきあげ、その他すべて相対(当事者の契約)によることとした。これは公用を除いて、一般運輸通信を時価相場によっておこなわせることを認めたものである。これにもとづき、三年五月に「宿駅人馬相対継立会社」という私立会社を設立させる方針をうちだした。これは私立会社によって、一般の輸送を担当させようとする計画であったが、実現されないまま、四年五月に駅逓司によって「陸運会社規則案」が立案され、駅逓司の官吏を東海道各駅に派遣して会社設立を勧誘させた。
陸運会社が正式に認可されたのは、廃藩置県後の四年十二月のことである。これは従来もっぱら公用荷物輸送を優先させていた宿駅制度を廃して、あくまで民間荷物の輸送機関として設立された点に特徴があった。こうして陸運会社が設立されると、翌五年一月には東海道の宿駅が廃止されるにいたった。そして東海道以外にも陸運会社の設立が促進され、八月までに全国諸道の宿駅とそれに付属する助郷制度はここに全廃されたのである。
近世末、摂津の宿駅は一二駅であり、兵庫駅・西宮駅・昆陽(こや)駅・瀬川駅・郡山駅・芥川駅・伊丹駅・小浜駅・生瀬(なまぜ)駅・道場川原駅・湯山駅・藍駅であった。これらの宿駅がこの東海道筋陸運会社の設立にならって、その規則書をしめされ、陸運会社設立に関する通達をうけとったのは、明治五年二月のことであった。西宮駅所ではこの通達をうけて、同年五月に会社設立の願書を提出し、同年八月に認可され、九月一日より陸運会社の営業を開始した。尼崎での陸運会社の設立についてもほぼ五年九月であったと推定されている。小浜駅の場合については史料不足のため不明であるが、五年八月十五日に陸運会社設立一件について、兵庫県庁から呼びだしがあり、二十日に駅役人を兵庫県庁に出張させ、県庁では「道場河原・小浜・伊丹の三駅は、ともに御一新後にいずれも兵庫県支配となった節に、旧領主から駅所の訳が届出されている」とのことで、おそらく西宮・尼崎両駅と同じように九月に設立を認可されたものと思われる。なおこのときまでの小浜駅役人は加嶋屋忠兵衛であった。しかし生瀬陸運会社については、行政改変のときの駅所としての届出の不備を理由に認可がおくれ、ようやく十月十三日に認可されている。