陸運元会社への統合

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こうして全国的に宿駅は陸運会社となり、助郷と公用賃銭は廃止されて、相対の継立てによる民間会社として、一般に多大の便益を与えた。しかしこれによって陸上交通における旧弊が一掃され、すべてが改新されたわけではなかった。その経営方法において、あるいは収入・支出の経営面で健全な収支が償われたかどうか疑問である。
 そこで各駅の陸運会社を統制し、全国統一的な運輸機構を確立する必要から、政府は明治五年六月に三都定飛脚問屋に勧めて、まず東京に陸運元会社を設立させた。これは明治三年六月に政府が公用書状の逓送を三都定飛脚に委託することを廃止し、郵便事業は政府がおこなうこととなったため、陸運元会社の結成をこれら定飛脚に認めたものであった。そして東京についで九月には大阪でも定飛脚仲間によって大阪陸運元会社が設立された。
 こうして陸運元会社が設立されると、元会社は単独で業務をおこなうだけではなく、すすんで各地の陸運会社に働きかけて、陸運元会社への統合あるいは入社を勧誘した。兵庫県の尼崎・西宮・兵庫・生瀬その他の陸運会社に対しては、明治六年一月に大阪陸運元会社役員の土田岩蔵がそれぞれの会社を巡回して、山陽道下関、西海道長崎にいたる貨物の一貫運輸を開くについての加入をすすめた。この陸運元会社は、いずれも株式会社に近い組織であったが、各駅の陸運会社はこれらの元会社に一定の出資をして「入社」(元会社の株式をもって合併すること)とすべきものとされた。
 さらに七年十月には大阪陸運元会社頭取の大森惣右衛門・山田幸次郎の両人が兵庫県下を巡回し、兵庫陸運会社をはじめ西宮・小浜・尼崎・生瀬・伊丹・道場河原・昆陽の各陸運会社に合併するか、入社するかを懇請して回った。
 西宮駅・兵庫駅の陸運会社肝煎が各駅所の意見をまとめ、大勢は陸運元会社への合併の方向に傾き、ここに西宮陸運会社・生瀬陸運会社は、陸運元会社分社あるいは取次所・継立所としての営業を開始することとなった。小浜陸運会社の動向は不詳であるが、おそらく西宮・生瀬などと同調した歩みをとったものと思われる。
 やがて明治八年二月、陸運元会社は内国通運会社と改称した。同年五月末日かぎり各駅の陸運会社は解散を命じられ、すべて内国通運会社に吸収合併された。ここに政府によって保護された特権的な一大運輸会社の設立によって、全国の輸送網が内国通運会社の独占的事業として強化されていった。この過程で、大阪陸運元会社は内国通運会社出張所となり、西宮はその分社として、生瀬は取次所・継立所と変転していった。小浜陸運会社も同じ運命の道をたどり、江戸時代以来、交通の要衝として発展してきた小浜は、以後大きく変貌し、やがて往時の姿を消すにいたるのである。それは宿場町〝小浜〟から阪鶴(はんかく)鉄道・阪急電鉄の〝宝塚〟への推転のきざしでもあった。