金札と兵庫県札

115 ~ 115 / 620ページ
まず政府が発行した貨幣として金札がある。これは銀目停止に先立って、慶応四年閏四月の太政官布告をもって公示されたもので、政府財政の赤字補填(ほてん)のために発行されたものであった。さきにのべた会計基立金(正金)の拠出に対して、政府が貸付金(殖産興業資金)の形で、広く流通させた。この金札の種類は一〇両・五両・一両・一分・一朱の五種類であったが、翌二年十月には民部省札も発行され、それは二分・一分・二朱・一朱の小額の補助紙幣であった。
 さらに新たに兵庫県(第一次)が明治元年十二月二十八日に発行した兵庫県札がある。これは成立したばかりの県財政の基礎を固めるため、県自体が独自に発行したもので、金札兌換(だかん)の紙幣であった。その発行紙幣は前後二回にわたっており、第一回は十二月二十八日に銭六百文札と同百文札の二種類が、ついで翌二年正月に銭一貫二百文札・同三百文札の二種類が発行された。その発行総額も九万三七一二貫文、金貨にして九万六二二〇両にも達したものとされている。その流通範囲も当然第一次兵庫県下の村々であった。県札引替所は兵庫・北風荘右衛門、神戸・畠山助右衛門、御影・嘉納治兵衛、西宮・紅野平左衛門におかれた。
 発行当時の市域村々のうち、直接この第一次兵庫県管轄下にあったのは見佐村だけである。しかしその後明治三年六月二十九日に通用停止令がでて回収(兌換・処分)されたため、その間に兵庫県に編入された旗本渡辺氏領や一橋・田安両領でも、県札が通用していたと推測できよう。