市域の藩領は尼崎・麻田・篠山・飯野の四藩であったが、飯野・篠山両藩は本藩では藩札が発行されていたが、飛び地の市域の所領でも発行され通用したかどうか確証がない。また麻田藩については、明治四年の回収令がでるまでに、消却が終わっていたので、明治政府により新貨と交換されたことが明らかなのは、尼崎藩札であった。しかも市域では武庫郡下の村々が尼崎藩領であったので、広く流通していた。
尼崎藩では慶応四年の銀目停止令にもとづぎ、まず三〇〇〇貫文の銀札を銭札と交換した。その改造にさいしては、銀札のうらに「銭何文」という黒印がおされて通用した。その交換比率は、慶応四年七月の布達によると、銀一〇匁=銭五〇〇文の割合であった。しかし現実にはこの銀札の倍額に相当する銭札が、銀と銭の交換に便乗して過剰発行されたので、明治三年四月の銭札発行額は銭三〇万貫、金にして三万両と報告されている。このほかに維新後あらたに尼崎の梶吉右衛門などにあてた手形形式の一両券・一歩券一朱券の三種類の、藩発行の金札(藩札)あわせて一万両があった。これは明治二年十二月五日の布告で、全国諸藩においてあらたに藩札の製造・発行を禁止する達しに触れることをおそれて、表向きは慶応二年に発行したと報告されているものである。この分についてはついに回収時までもちこされたため、あとでのべる藩札回収価格に「金札」があらわれてくるのは、以上のような事情によるものであった。
明治四年七月十四日に政府は諸藩の肩代わりをして藩札を回収し、現地相場を基準として、これを新貨と交換することを明らかにした。そこで五年八月にいたって、大蔵省は五銭以上に相当する藩札を新貨に交換し、五銭未満は藩札面に朱印をおして、しばらく通用させることにした。回収にあたっては尼崎藩札と新貨幣との価格比率は金一両につき金札一両、銭一一貫五三五文とされており、金一両札=新貨換算額一円、金一分=二五銭、金一朱=六銭二厘、銭札一貫文=八銭、五〇〇文=八厘、四八文=一厘とされた。そしてこの回収価格はほぼ全国平均にちかいものであった。
なおさきに朱印をおして暫定的に流通している五銭未満の銭札が回収されたのは、明治九年四月で、これで江戸時代以来の藩札回収業務が完了したことになる。