明治十一年(一八七八)の三新法によって、府県―郡―町村の官治行政の系統組織が成立したが、他方戸長の公選など町村の自治を認めた。しかし、この方針が変わり、町村の自治が国の行政に現実に従属するに至る契機は、明治十四年十月二十一日大蔵卿に任じられた松方正義の、本格的デフレ政策を内容とする、いわゆる松方財政の開始であった。
国費の削減は地方団体の責任や負担の過重となり、それまで日常的業務以外にはほとんど関係しなかった町村も、種々の点で国の行政の代行者あるいは分担者としての機能をはたさなければならなくなった。町村は事実上も国の行政の末端組織となった。
ところが、町村は自治団体としてもあまりにも小規模であり、また増加する役割をはたす行政単位としてはなおさら規模が小さすぎた。したがって、町村合併を認めないという原則を守りながらも、行政単位の拡大をはからざるを得ないこととなった。しかしこれは住民の抵抗にあうことを考慮しなければならない。したがって行政区域の拡大を積極的に進めることができなかったが、明治十七年に至り全国的に実施することになる。