兵庫県はそれに先んじて十六年二月、戸長の公選を官選の方向に換え六月一日県布達丙第一四号によって、戸長役場管轄区域を拡大し、県下の三三郡に三九六の戸長役場を設け、七月一日から実施することとした。市域ではつぎのとおりであった。
武庫郡小林組役場 鹿塩村・蔵人村・小林村・伊孑志村
川面組役場 見佐村・川面村
川辺郡小浜組役場 小浜村・安倉村・米谷村・安場村
山本組役場 中筋村・中山寺村・平井村・山本村・荒牧村
新田中野組役場 荻野村・鴻池村・新田中野村・池尻村
大原野組役場 切畑村・玉瀬村・境野村・芝辻新田・長谷村・大原野村・波豆村
木器組役場 上佐曽利村・下佐曽利村・香合新田・木器村・下槻瀬村・上槻瀬村・市之瀬村・波豆川村
全国的に、戸長の官選と行政区画の拡大がおこなわれるのは翌年であり、兵庫県は国の方針を先取りしていたのである。明治十七年五月七日太政官達第四一号は、戸長を官選とし、同時に発せられた山県有朋内務卿の訓示は、行政区画の拡大を指示した。拡大の基準は、五〇〇戸以下で五カ町村以下としたが、同年六月これを修正して五カ町村まで、あるいは五〇〇戸までのいずれかであればよいとした。
戸長は、町村人民が三人ないし五人を選挙し、そのなかから府知事・県令が「永ク其町村ニ居住シ名望資産ヲ有スル者」を選ぶという官選戸長制となった。
区町村会法も改正せられ、議員の選挙・被選挙資格を地租納入者に限り、また議案の発案権は戸長に限られた。
明治十一年三新法によってつくられた県令―郡長―戸長という官治行政の系統組織は、自由民権運動の力がある間は町村の自治を重んじたので有効に機能しなかった。町村財政の悪化により町村の連合・戸長役場管轄区域の拡大が進み、自由民権運動が衰退するや一挙に地方制度を改正し、県令―郡長―官選戸長という系統組織が整備されることになった。
兵庫県では明治十七年九月八日布告で、何組戸長役場とよぶことをやめ、「役場所在ノ町村名ヲ冠シ外何ケ町村戸長役場ト改称本年十月一日ヨリ実施」することになった。翌十八年十二月に安場村は川面村に合併したので、その後の市域の戸長役場はつぎのようによばれた。
小林村外三ケ村・川面村外一ケ村・小浜村外二ケ村・山本村外五ケ村(満願寺村を含む)・新田中野村外三ケ村・大原野村外六ケ村・木器村外七ケ村戸長役場。
十九年三月、兵庫県では町村の総代も私産名望を有する者に限られ、その仕事も法令などの伝達と戸長の指示による町村の事務であって、上意下達の末端機関であり、官選戸長事務の下請機関となり、町村自治の代表者としては認められなくなった。