新地方制度の準備

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明治十一年の三新法によって、町村は行政区画であると同時に自治団体であるという二重の性格を回復したが、町村の規模をそのままにした戸長役場管轄区域の拡大は、町村の二重の性質を分裂させることになった。三新法の方針を貫くならば、分裂したものをふたたび統一しなければならない。明治二十一年(一八八八)の市制・町村制がそれであったが、その成立には研究期間を含めて三年余を費した。
 新しい町村制の研究は、明治十七年から内務省でおこなわれ、十八年六月に町村法案ができたが、これは十七年の地方制度改正の延長線上のものであった。これをみた、当時の内閣雇いの法律顧問であったドイツ人アルバート・モッセの意見により、内務卿山県は二十年一月地方制度編纂委員会を構成し、みずから委員長となりモッセを委員の一人に任命した。委員会案として作成された地方制度編纂綱領にもとづき、市制町村制が二十一年四月二十五日公布された。また町村合併標準・郡の分合標準および市制標準が六月十三日に示された。

図4 明治21年市町村制実施時の宝塚市域村々
〔注〕 図3と同じ