行政村と自然村

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近世の村は藩政上作られた行政村であったが、それはまた自然村(むら)と一致するのが原則であった。自然村とは農家が集落を形成し、人々が自主的に作った村極(むらぎめ)あるいは定めなどの規範に従い一定の領域において生産と生活とを営む自治的協同体であった。明治初期にはしばしばこれを村落とよんでいる。
 村には大きな村も小さな村もあった。明治二十二年に西谷村となる一二カ村の戸数を表36でみると、芝辻新田・香合新田・南畑北畑立合新田はそれぞれ六戸で小さく、大原野村は一九〇戸で行政村のうちでも大きな村であった。平均一村当り戸数は五三・六戸で波豆村や長谷村がほぼその規模に相当する。
 

表36 明治12年各村の人口

村 名戸 数人 口
上佐曽利66302
下佐曽利45213
長  谷55249
芝辻新田627
香合新田625
大原野190799
境  野74283
玉  瀬52224
北  畑27129
南  畑63289
立合新田619
*波  豆53247
合 計6432,806

〔注〕*印は明治14年「川辺郡第22戸長役場各村戸数人口表」による


 
 これらのうち境野村・長谷村・波豆村・芝辻新田などは自然村と一致していたが、大原野村には明治二年七月の記録によると、そのうちに入野むら・久保むら・上むら・下むらなどの自然村があった。入野むらの家数は、天保十五年(一八四四)名寄帳では一〇戸、安政二年(一八五五)には九戸であり、明治六年(一八七三)の地下総高は四〇石一斗九升八合、明治十年十二月の人口調べでは四六人の自然村である(八五ページ参照)。明治二年七月につくったむら定めが残っている。