明治四年の波豆村五七戸を田畑山林の持高合計で分けると、三〇~四〇石一戸(一・七%)、一〇~二〇石九戸(一五・八%)、五~一〇石二七戸(四七・四%)、一~五石一二戸(二一・一%)、持高のないもの八戸(一四・〇%)であった。土地所有面積別階層としてみれば、四~五町規模の貸付地を有する一戸が村の最上層であり、一町歩から二町歩の約九戸は中農の上層に位置し、五反から一町の二十数戸がこの村の中堅をなす中農層であったと思われる。それにつぐ五反以下の一二戸は小作農であったと思われるが、最下層には全く土地を所有しない小作農で、被雇用労働を主とする農村労働者ともいうべき階層のものが約八戸あった。
村々のこのような状況を知るため表38をかかげた。波豆・境野・玉瀬村は山村もしくは山間村であり、伊孑志・見佐・平井村は平野部の村である。前者においても、五反から一町の中農層が比較的多い波豆村のような村と五反以下の層の多い境野・玉瀬のような村とがあった。また後者平野部においては、中農層の規模が一段階上で一町から二町層が最も多く、上層と下層との双方へ農家が分布する伊孑志村のような村と、見佐・平井両村のように五反以下層が過半数を占める村とがあった。また貸付地を有する地主の所有地は、山村ないし山間村では四~五町程度であったが、平地村では五町歩以上の規模のものがあった。そのような地主は必ずしもすべての村にあったわけではない。波豆村には持高三〇石七斗一升七合六夕の地主があったが、明治五年下佐曽利村のさる家に田高二八石五斗二升四合・二町二反四畝一四歩と山畑高二斗七升・二町一反二畝、合わせて高二八石七斗九升四合三夕・四町三反六畝一四歩を譲渡したので、波豆村には二〇石以上の高持ちはいなくなった。
表38 土地所有面積別農家数
反別 村名 | 波豆村 明治4年 | 境野村 10年 | 玉瀬村 8年 | 伊孑志村 初年 | 見佐村 20年 | 平井村 10年 | ||||||
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戸 | % | 戸 | % | 戸 | % | 戸 | % | 戸 | % | 戸 | % | |
100反以上 | ||||||||||||
75 〃 | 1 | 1.5 | ||||||||||
50 〃 | 1 | 3.7 | 1 | 2.2 | ||||||||
40 〃 | 1 | 1.8 | 2 | 3.1 | 1 | 2.2 | ||||||
30 〃 | 8 | 12.3 | ||||||||||
20 〃 | 2 | 3.3 | 9 | 13.9 | 1 | 3.7 | 5 | 10.9 | ||||
10 〃 | 9 | 15.8 | 1 | 1.6 | 1 | 1.9 | 24 | 36.9 | 3 | 11.1 | 5 | 10.9 |
5 〃 | 28 | 49.1 | 10 | 16.4 | 9 | 17.3 | 8 | 12.3 | 5 | 18.5 | 8 | 17.3 |
5反以下 | 19 | 33.3 | 48 | 78.7 | 42 | 80.8 | 13 | 20.0 | 17 | 63.0 | 26 | 56.5 |
合 計 | 57 | 100.0 | 61 | 100.0 | 52 | 100.0 | 65 | 100.0 | 27 | 100.0 | 46 | 100.0 |
〔注〕 1.波豆村については40反以上を除き便宜上1石を1反として計算した
2.平井村は山崎隆三著『地主制成立期の農業構造』によった