伊孑志村に南接する小林村は米麦作を主としていたが、村の西部の丘陵地には茶樹を植え煎茶や番茶の生産をしていた。しかし明治十五年ころから漸次衰運に傾き、明治三十年ころには製茶をおこなうものは数戸になった。明治末年には果樹とりわけ柑橘(かんきつ)類の生産に変わるのであるが、果樹を植えはじめたのは幕末あるいは明治初年であった。小林村の石井幸吉の幸農園は、弘化元年(一八四四)に稲野(伊丹市)あたりより温州および紀州柑苗を取寄せ二反五畝の畑地に植えたという。明治七年には三反歩をふやし、さらに二十五年に二反歩を拡張した。また平塚嘉右衛門の晴耕園における柑橘類の生産は、明治元年ころ茶樹の間作として温州柑樹を五反歩の地に植えたのが最初であった。また田中亀太郎の愛果園の発端も、やはり同じころ約三反歩の畑地における温州柑の定植であった。木本彦六の豊果園もそのころ温州柑の苗木を後の稲野村より取寄せて六反歩の畑地に植えたのがそのはじめであり、十五年ころ二反歩を、二十三年ころさらに六反歩をふやした。小林村には古くから武庫郡で有数の梅園があり、大阪市の成舞長左衛門の所有であったが、この中に夏橙や温州柑を点植していた。これがのちの八馬兼介の宝梅園である。これらは地主による農業経営であったので、農場で働く労働者が伊孑志村・小林村・蔵人村・鹿塩村から求められたに違いないが、資料を発見していない。