山林原野の所有

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農家はその生活をするうえで、肥料や薪炭あるいは家屋を建てるに必要な材木や屋根を葺くための萱(かや)の供給源として、山林や原野を必要不可欠とした。平野部にある村は、山林や原野を山村のように容易に求めることはできなかったので、村内の土地に山林や原野をつくったり、また村から離れた土地にそれを求めた。武庫川左岸にあり常に水害に脅(おびや)かされていた見佐村でも、明治二十年現在で九町三畝歩の田畑に対し、約三町歩の山林原野があった。
 このような山林原野は、もとは村のすべての百姓が共同で維持管理し使用していた。すなわち総有という形態で事実上所有し、百姓はたきぎやまぐさ・肥草などを共同で採取していたのである。しかし限りあるものを採取するとき、百姓は平等の利用権を主張し、総有地の持分を平等に分割するようになる。そのような例を長尾山の山麓にある平井村にみることができる。
 平井村の「山水帳」と記す記録によると、明和四年(一七六七)に村総有の入会(いりあい)山を一六二カ所に分割し、その一カ所を二軒分の持分と定めた。一カ所を二口とすると三二四口となるが、それを五八戸の百姓が五口ずつ平等に分割した。ただ庄屋は七口、別の二戸は九口と二口の持分であった。このような持分はその後質入れされたり譲渡されたりして、各戸の持分は変化する。表39によれば、約五〇年後の文化十三年(一八一六)には当初の五口をもつものが一五戸になり、他は持分が減少したものと増加したものに分化した。さらに七七年後の明治二六年(一八九三)には五口所有のものは僅かに二戸となり、上下への分化がいちじるしい。これは農民層の分化を山林原野所有について示しているが、つぎに山林原野所有と耕地所有との分化の関係を明治初期についてみることにしよう。
 

表39 平井村山林持分

持 分明和4文化13明治26
   口 戸 戸 戸
431
361
2011
10~1667
 6~92125
558152
 3~4135
21222
18
戸数計614952
口数計308300307

山崎隆三著『地主制成立期の農業構造』による


 
 農業をおこなう耕地面積が広ければ広いだけ採草地も広い面積を必要とした。山村の波豆村と平野部の伊孑志村との、耕地面積と山林原野面積との関係を表40でみると、波豆村では耕地の所有者はすべて山林を所有し、耕地面積の大きいほど山林面積が大きいという傾向がみられる。田畑三反以上では山林三反以上、一町以上では一町以上を所有している。また全般的に田畑所有面積に比し山林面積が大きい。これに対して伊孑志村でも同じ傾向がみられる。しかし田畑所有面積五反以下層でも七反から一町五反の山林を所有し、田畑を所有しないものでも五反から七反ほどの山林を所有するものがある。またそれとは反対に田畑所有面積一町以上でも山林所有面積一~三反という農家もあるように、田畑所有面積に比し、山林所有面積の少ないものもある。これは田畑山林の喪失・取得による上下への階層分化が、山村の波豆村よりも平野部の伊孑志村の方がはげしかったことを表わしている。
 

表40 明治初期波豆村・伊孑志村田畑・山林所有面積別相関表

田畑(2) (1)山林  町
5~3
~2~1.5~1.0~0.7~0.5~0.3~0.1~0.050.05未満ナシ
波豆村   町
 3~211
 2~1.511
1.5~1.02327
1.0~0.7423312
0.7~0.51212129
0.5~0.31533113
0.3~0.11124
0.1~0. 05
0.05未満
 ナシ(8)
311412565147
6.423.48.525.510.612. 810.62.2
伊孑志村 町
 7以上11
 3~2112
 2~1.5123
1.5~1.01323110
1.0~0.754211
0.7~0.51315
0.5~0.3224
0.3~0.1441615
0.1~0. 052114
0.05未満1135
 ナシ3115
1520178121165
1.57.730.826.212.31.53.116.9

〔注〕1.波豆村は「第15区波豆村地券一筆帳」伊孑志村は「兵庫県下摂津国武庫郡伊孑志村地籍」による
   2.波豆村の%は持高ナシ8戸を加えて合計55戸として算出した
   3.(1)山林は伊孑志村の場合松山・松林・草生地面積の合計である
   4.(2)田畑は波豆村の場合田畑屋敷地の合計である


 
 村総有の山林原野の持分を村の百姓が平等に分け、その後持分に変化が生じ、明治になってそれらが各戸の所有になったことは先述のとおりだが、そのように分割したのは村の口山であって、奥山は分割しないで村総有のままにしている場合が多く、明治になってからも村の共有財産であった。また数カ村の共有の場合もあった。明治二十二年に新しい町村が成立するが、その後も部落共有財産として旧村の共有形態が維持され、旧慣に従って利用された。共有財産は面積としては山林原野が大きかったが、それだけではなく田・畑・溜池・墳墓地・宅地などもあった。明治二十二年現在についてみると、表41のとおりである。
 

表41 明治22年西谷村各むら共有地

村  名原 野山 林墳墓地郡村宅地溜池合 計
 畝 畝  畝   畝 畝  畝  畝
上  佐 曽  利18.074.213.152308.08373.092708.00
下  佐 曽  利13.241.199.055870.153.165898.19
波       豆2.121.004887.2170.164961.19
長       谷62.193.11165.109275.2278.033.28193.049782.07
芝 辻  新  田15.02557.096.062.151.218.18591.11
大   原   野17.15106.2125.197049.0881.09582.187863.00
境       野16.182698.2920.000.21170.212906.29
玉       瀬53.211.2976.024656.1543.007.0985.184924.04
切       畑149.252.27326.17460.2538.0610.24251.061240.10
大 原 野・境 野2301.072301.07
玉瀬・境野・大原野18807.1818807.18