村には同じ姓を有する家が何軒かある場合が多い。明治初年波豆村では奈良平姓が一〇戸、福本姓が五戸、福井姓が四戸、石田・永瀬・福永・中安姓がそれぞれ三戸ずつ、中林・畠中・中西・小谷・新井・小池姓が二戸ずつあった。これらはかならずしも血縁の関係ではなかったが、本家・分家の系譜関係を有する場合が多かった。同姓の家々が一団となって一年に一、二回共同の先祖あるいは祖神まつりをすることがあるが、このような本分家の集団は、株または一統とよばれることがある。明治八年の下佐曽利村の記録によれば、二井一統・二井・井上・松田・芝・前田などの株中がそれぞれ墓地を共同にもっていた。下佐曽利村はこのような同族組織の連合であるという一面をもっていた。しかし本分家の系譜上のつながりが数代あるいは十数代も以前にさかのぼり、それ以降家々の浮沈が重なると祖神または守護神まつりだけは共同でおこなうが、本分家間の庇護奉仕の関係ははるか昔のことになり、兄弟の家や嫁の里との間に相互扶助がおこなわれることになる。親類間のつきあいが深くかたいときは一家(いっけ)とよばれ、婚姻関係が長い年月の間に村内に累積してくると、村は親類関係の綱でおおわれることになる。
明治十年前後のインフレと明治十四年に始まるデフレ政策は、いずれも農家に大きな打撃を与えた。波豆村が明治十五年におこなった行政報告によると、過去一年間に書入質入された土地は四町二反七畝で件数は五件、売買された土地は三町一畝一八歩、件数は四件であった。このような場合証文の受渡しをともなうが、玉瀬村には、一家や親類総代が名を連ねて保証をした質入借用証文・山林譲り渡し証文・養子縁組約定書などが残っている。明治の初期には一統・株あるいはまた一家や親類の家々の間のこのような相互扶助関係がなお強かったものと思われるが、村の中に一統とか株などに所属しない家族や、父もしくは母のいない家族もあった。このような家族のうちからつぎのような問題が起こっている。
山間部のある村のことであるが明治六年と八年に、それぞれ二二歳・一五歳の娘が家出をして行方不明になり、遂に帰ることがなかった。前者は父がなく三七歳の母と三歳の弟がある借家住まいの、土地を持たない家族の子で、四五歳の家主が後見人となっている。後者は妻のいない三七歳の男の娘で、一二歳・九歳・五歳の弟妹があり、商売をする家族であって、いずれも父もしくは母のいない欠損家族内の問題が原因と思われるが、親類などの相互扶助もなかったものであろう。