村氏神と戸籍

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さて、右にみてきた村の農民層の分化や社会関係の変化によって、村の人々の生活はしだいに村の外にも関係することになるが、しかし明治初期は村を統一している諸条件が強く、村はいわゆる村落協同体として小宇宙をなしていた。村氏神はその象徴であった。それは一つの同族の氏神ではなく、多数の氏が同一の限られた範囲の土地に共に住むという地縁関係を基礎条件としてまつられた産土(うぶすな)神であり、村の人々はその氏子であった。
 明治政府は王政復古・祭政一致の旗印のもとに慶応四年四月九日、神社の社僧や別当に還俗を命じ、四月二十日には神仏判然令を発して神社が仏像を神体としたり、権現(ごんげん)あるいは菩薩(ぼさつ)などの仏号を神号とすることを禁じ、寺院や神社の所属を明らかにすることにした。これを復古主義の神道国教主義者は廃仏棄釈と解して寺院・仏像を破壊した。また政府は明治六年一月に徴兵令を定めることになるが、その準備としてまず人民を把握するため戸籍をつくらせることが必要であった。明治三年政府は平民の苗字(みょうじ)使用を許し、府藩県に命じて人民をすべて戸籍に編成し、それを産土神社へ納めさせ、人民は神社から印証をうけ所持することとし、嫁入り・奉公など移住したときはその土地の産土神社で印証をうけることにした。翌四年五月二十二日発布の戸籍法の実施規則として八月十九日諸国大小神社氏子取調規則を定めたが、印証という氏子札はいわば国民であることの鑑札となった。
 宗門人別帳は明治四年十一月十五日に廃止されたが、神社および神官による氏子改めの制度も間もなくおこなわれなくなった。戸籍法による区が設けられ、正副戸長によって戸籍が編成されたからである。初めての全国の戸籍調査によれば、明治五年の日本の総人口は三三一一万八二五人であった。