長谷村の普光寺は元禄十二年(一六九九)卯十月九日三輪大工伊左衛門の手によって再建されたが、これは村氏神牛頭(ごず)天王社の別当寺であり、村のすべての家の檀那(だんな)寺でもあった。社は素盞鳴(すさのお)神社と改められたが、神社と寺との関係位置は代表的なもので、今もなお変わっていない。
波豆村の八幡社も村氏神であり、その別当寺は金福寺であったが、慶応年間に火災で焼失しその再建途中に暴風のため倒壊して、三たび建立されることはなかった。明治二十四年八月二十四日付記録では、波豆村の普明寺檀家戸数は二〇戸で、三名の檀徒総代によって運営されていた。この寺の境内で毎年八月三十日午後八時より十二時まで、若い者が寄り集まり盆踊りをしたが、明治二十三年もこの件につき許可を願いたいと、同寺檀中総代永瀬喜市より兵庫県佐曽利警察分署長宛に願書を提出し、同日付で聞届けられた。寺はこのように村の人の集まる所でもあったが、川面村宝泉庵では明治八年九月に、安場村の雨乞いが十日間にわたりおこなわれた。それに要した入費金八円は田畑反別割とし、一反に付三銭七厘の割で徴収された。
波豆八幡は村氏神であるとともに、厄除け八幡として近在の人々に御利益(りやく)のある崇敬社でもあった。「往古ヨリ毎年正月十九日(現在は二月十九日)厄除祭典ヲ執行シ、地方参詣人多数」で西谷地区をはじめ中谷・多田・三輪・高平地区の三八カ村に厄除講があり、明治二十九年の講員基帳によれば講員数八〇〇戸に及んだ。この神社の維持は波豆村の氏子割りと西谷信用組合へ預入されていた基本金六〇〇円の利子のほか、賽(さい)物・神符・守料などによってまかなわれていた。
伊孑志村武庫山に塩尾(えんぺい)寺があり、村の檀那寺ではないが古くから大阪や尼崎あたりからの参詣者が多い崇敬寺であった。村の青年は観音講を組織し、参道の修理・堂宇の手入れ参詣人の世話などをした。これは後に積善組と名称を変えた。