明治初期の村は新政府の方針によって新しい施設を設けなければならなかった。学校を新築する場合は学区内諸村が新築費を負担した。年代不詳であるが下佐曽利村戸長松田宇兵衛の時、同村壱番ノ二ノ三八字椿谷の山二反三畝二五歩この地価金三二銭九厘を、「右ノ地所今般村民都合ニ依リ売却シ該代金学校新築費ニ充ルニ議決」している。おそらく商音小学校新築の時であろう。学校の維持費は最初学区内の人々が負担したが、三新法以後は村が負担した。小学校に対する文部省の補助金については前に述べたが、明治十三年四月一日県令布達甲第四八号によれば、同年一月より六月の間の金額は、学齢児童一人に付き金三銭四厘五毛四四九であった。村が学校を維持することは、村財政上困難であり、しだいに統合されたことはすでに述べた。