村はまた避病院も建てなければならなかった。虎列刺(コレラ)は文政五年(一八二二)長崎に着いたオランダ商船から病原菌が伝播し、翌年全国に流行した。安政五年(一八五八)にはアメリカ軍艦ミシシッピー号から菌が侵入し、万延元年(一八六〇)全国に流行し死者一〇万人を数えた。明治になってからの第一回目の流行は、十年九月二十二日西南戦争が終わり兵員を輸送中の亀福丸に発生した患者から伝染し、罹患者一万三〇〇〇人のうち八〇〇〇人が死亡した。第二回目は明治十二年四月愛媛県に発生しみるみるうちに全国に流行し、兵庫県の患者九八九一人、死者六三二五人、死亡率七〇・四%であった。第三回は十八年から十九年にかけて流行し県下の患者七七四三人、第四回流行は二十三年五月から神戸・尼崎方面に拡がり十月三十一日の患者数三七五六人、死者二六四七人、死亡率七〇・五%であった。兵庫県では十二年「虎列刺病予防法図解」などを配布し防疫につとめた。また十二年に流行した赤痢の患者発生数は兵庫県が最も多く四一人、死者六人で、以後年々増加し二十六年には一万六九三六人中死者四七〇九人、死亡率約二八%であった。
長谷村は避病院の設置願を村の衛生委員・村総代・芝辻新田総代および戸長古家新右衛門の名で明治十四年七月付で提出した。場所はイヤ谷小畑の村中持山林であった。
明治十六年度「川辺全郡町村聯合通常会成議録」は「近来連年虎列刺病流行ノ患害アル毎ニ予防ノ機ヲ失シ空シク非命ニ斃(たお)ルルモノアリ其予防ハ衛生上必要ノ事ナルヲ以テ全郡協議費中ヨリ石炭酸ヲ買入各戸長役場ニ備置ントスル意ナリ是実ニ忽(ゆるがせ)ニスヘカラサルヿコトタリト雖トモ現今民間ノ情態増費ノ徴収ニ忍サルモノアリ依テ本会ノ審議ヲ要ス」として提案し、買入を決定している。