村々の接触

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明治十一年三新法により郡が復活し、西宮に武庫郡役所、伊丹に川辺郡役所が設置され、川辺郡では同十五年四月二十日に教育会規則および同会議事規則ならびに教育共進会規則が達せられた。教育会は各校教員一名、各小学区学務委員一名で構成され、その「目的ハ汎ク教育上ノ利害得失ヲ諮問討議シ其旺盛ヲ計ルニ在リ」、議案は郡長が提案することになっていた。会費および会員旅費日当は各学区の協議費より支出された。
 明治十六年には川辺郡町村連合会議事細則二八カ条が達せられた。また同年町村連合農会規則六カ条が成立し、各農区内各町村より選挙された一名と、各農区内に住する郡農会員とによって連合農会が構成され、その費用は町村の協議費で支弁された。第六条で画された農区は六農区で、そのうち宝塚市域に関連のあるものはつぎのとおりである。
 第四農区、栄根組・山本組・新田中野組・小浜組。
 第六農区、木津組・島組・川原組・木器組・大原野組。
 このようにして明治十一年以降、村の人々は他村の人との接触、コミュニケーションの機会がふえ各種の情報も得られることになり、村の人々の心は開かれた。しかし明治十六年は地租の滞納による強制処分で土地の競売が漸増し、十七年は不景気に加えて凶作、十八年は五月中旬から十月にかけて暴風雨多く、全国的に被害が大きく、十九、二十、二十一年は米価低落で、村の人々の苦しい生活が続いた。このような状態であったので、郡内諸会議も諸事節約し五名のものは三名に、二回のものは一回にした。明治期における最も苦しい時期であった。