戦争と教育

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帝国憲法の発布により、資本主義発展の政治的条件が確立され、教育の方向が定まり、明治初年以来の課題であった対外独立と産業資本の形成が、生成する寄生地主制を基盤として展開することになった。国民皆教育により、文字を読み計算ができ規律を守る身体の丈夫な子どもに育てることは、国民皆兵と近代的工場労働者の養成に必要不可欠であった。兵式体操はすでに二十一年一月十二日省令により「隊列運動ヲ兵式体操ト改」めて実施されていた。義務教育を徹底するためには年限を短縮する必要があり、三十三年に四年制に統一し、義務教育は授業料を徴収しない原則を立てた。
 資本主義の発展と対外独立の姿勢は帝国主義的海外進出を惹起(じゃっき)し、また欧米列強の内部における階級対立は、アジアにおける殖民地支配を日本に代理させざるを得ない情勢となり、日清・日露戦争から第一次世界大戦となっていった。教育は天皇制教育の強化と、資本主義の発展にともなう機械の進歩に適応する技術教育が推進された。実業教育の振興と義務教育年限の延長、および教育水準の向上をめざして高等教育の整備がはかられたのである。

写真67 西谷尋常高等小学校全景 大正期
(市立西谷小学校提供)


 しかしながら日露戦争以後の不況のなかで、義務教育を徹底し延長するためには、寄生地主制のもとに困窮する小作層の学費負担を廃止せざるを得なくなったが、地方財政は窮迫し、そのなかに占めていた教育費の割合が四〇%以上にものぼる状態であった。政府はすでに三十三年に市町村立小学校教育費国庫補助法を制定していたが、市町村の教育財政を助けるため市町村に学校基本財産の設定を奨励した。
 明治三十九年には良元校の基本財産蓄積規約案につき村民の賛同を得て、九月一日から実施された。
 明治四十年六月日付の安倉むら「小学校基本財産積立小麦米集帳」によれば、一人当り小麦一升代、米一升代を積立て、明治四十八年旧七月には甲部一〇一戸金八円〇八銭、乙部六五戸金五円二〇銭、〆(しめ)一三円二八銭を積立てる意味の記載がある。
 また四十一年度下佐曽利「西谷村学校基本財産造成申合麦米拠出徴収簿」によれば麦七升・米七升一人、麦四升・米四升二人、麦三升・米三升四人、麦二升・米二升五人、麦一升・米一升六人、米五合五人とあり、そのうち米四斗五升五合が徴収されたことがしるされている。このような状況のなかで変わってゆく小学校の様子をみることにしよう。
 市域の尋常小学校は、明治二十五年現在、良元・国府・川面・長尾・西谷・明徳の六校であることはすでにみた。ただ明徳校は、二十四年に玉瀬むらがその校区から離れたので、以後は切畑尋常小学校と改称したものと思われる。

写真68 切畑尋常小学校玄関
明治34年 (市立西谷小学校提供)