西谷村の小学校

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明治二十五年十月二十八日「御宸影奉戴(ごしんえいほうたい)」、十一月三日「此ノ日天気晴朗午前九時教員生徒并ニ村長以下村役場吏員村会議員学務委員等式場ニ参列シ本年頒布ノ県令四〇号ニ基キ第二条ノ式ヲ行フ、本校ニ於テ端厳ナル儀式ヲ挙行スルノ初ナリ」と、学校日誌は記している。この月に三学年仮補習科をおき、高等科設置の準備とした。
 明治二十七年二月西谷尋常小学校の校舎は新築された。三十一年六月一日上佐曽利に、三学年以下の者のために分校を設置し、同年六月には四学年に裁縫科を設け、また九月二十日高等科四学年を併置し、西谷尋常小学校と改称した。分校は戦後の昭和三十二年十二月末まで存続した。明治三十二年八月には校舎改築のため、一時宝山寺本堂および福田音松方の座敷を仮教室として借受け授業した。同年十一月には校舎が落成した。このとき村民から一人二円ないし三円の寄附があり五人の氏名の記録が残っている。
 明治三十五年三月、「高等小学校卒業生ノ状況ヲ見ルニ挙テ農ヲ嫌悪スルノ念アリ」、村民のなかに教育は実業に関係するものではないと誤解する者があった。農業をすすめ技能を授けるため高等科第三、四学年に農業科をおく必要があるとして、四月一日から実施し、大原野字石保二番の畑六畝二四歩を一〇カ年間の約束で借りて農業科実習地とした。
 三十九年九月には講堂が竣工した。
 開校一〇〇年記念誌「西谷小学校百年のあゆみ」に、卒業生がその在学中の様子を記しているが、これによれば明治三十七年から使用された国定の尋常小学校読本の最初が「イエ、スシ」であった時期の小学生は、筒そでに前垂れ藁草履(わらぞうり)、雨天の日は下駄をはき、ふろしきに本を包み背なかに背負って通学した。時には軍歌を歌い勇しく登校した。鐘の音で全校生徒が講堂前に集まり、御真影(しんえい)を奉拝して教室に入った。毎週月曜日には校長の精神訓話があり、三大節には分校の生徒も共に袴(はかま)をはいて登校し、先生をはじめ村長や村の有力者が礼装で参列して、君が代斉唱・勅語奉読の厳粛な式が挙行された。運動会は南の運動場(今農協のある所)へ道具をはこんでした。来賓には生徒のつくった竹の皮包みの弁当をだした。校内に深い井戸が一つあり、学校で必要な水はすべてつるべでくみあげた。
 低学年の授業では石板と石筆を使い、習字の時間には半紙を二〇枚ほどつづった草紙をつくり、これがまっ黒になるまで毛筆で稽古した。テニスコートが二面あったが、低学年は使えなかった。
 帰宅後は野らに出て百姓仕事を手伝い復習は暗いランプの下で、翌日はランプのホヤの掃除をした。
 上佐曽利の分校は、「昔の警察分署の建物」を使い、寺小屋式の学校で、学童二五、六人であった。切畑の小学校は生徒数約四〇人で先生が一人、教具も少ない学校であったという。

写真69 旧上佐曽利分校全景
現在は地区公会堂


 明治四十年小学校令の改正により、義務教育年限は四年から六年に延長され、高等小学校の修業年限は二年であるが、三年とすることもできることとなった。これによって西谷村は切畑尋常小学校を廃し、四学年以下を一学級とする西谷尋常高等小学校切畑分教場とした。四十二年に本校の改築工事がおこなわれ、さらに四十四年八月には改増築があり、切畑分教場も改築された。
 大正六年(一九一七)には佐曽利分校が新築され、同十五年には切畑分校の一学級を二学級にするため教室の一部改造をおこなった。昭和三年九月には農具舎と鶏舎ができた。十一月に新校舎が完成した。
 明治四十三年からは国定二期教科書「ハタ、タコ、コマ」時代であるが、生徒の服装は以前と変わりなく、武田尾から通うと草履は一日に二足ずつ必要であった。高等科の生徒には、帰宅して後一里の山を歩き父の炭焼きの手伝いをして、暗くなってから炭二俵を背負って帰るものもあった。大正三年の卒業生は記念にポプラを植えた。
 大正七年にはじまる「ハナ、ハト」時代も生徒はなお筒そでの着物に兵児帯をしめ、梅干し入りの日の丸弁当をもって通学した。秋の運動会には高等科生徒の音楽隊の演奏にあわせて、四列縦隊で行進しながら、男女交互に西谷郷土唱歌「位置は津の国大阪の」を歌った。この季節に伊丹町の誓文払いで、運動シャツや学校行きの洋服を買ってもらって喜ぶ生徒も何人かあった。ゴム半靴をはくものもあらわれた。