小浜村の小学校

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明治二十四年七月国府小学校は川面小学校を合併したが、一年余の後二十五年十二月川面尋常小学校は分離独立し、ふたたび一村二小学校となった。二十六年の国府校は四学年一三二名、川面校三学年四六名であった。国府尋常小学校は明治三十二年か三十三年に小浜と名称を改めた。小浜村事務報告には「三十四年三月十三日付郡長ヨリ本村小学校ヲ一校トシ位置ハ小浜小学校位置トスル旨本村会ノ意見ヲ聞カルニ対シ答申上再三本村会議ニ付スルモ決セス校数ヲ一校トシ位置ハ安倉ノ西古野米谷南山或ハ茶屋ノ際等委員ニ付托シテ調査スルモ決セス既ニ本県令ニ依リ校舎改築ヲ要ス期日ニ迫ルモ其事ヲ為スニ不至依テ一ケ年間ノ猶豫(ゆうよ)ヲ出願セリ」とあるが、結局二校の新築をきめている。
 明治二十五年国府校より独立した川面校は十二月一日、川面尋常小学校として開校した。男二四、女二二、計四六名が在校生であった。そして一〇年後の三十五年、それまで小浜小学校と一本であった学校経費を分離したが、この年度の年間経費は六九五円〇銭であった。
 翌三十六年校舎新築の議が決まり、建築委員長中野孝十郎外四名によって進められた。工費一七五六円〇八銭、敷地料一九三円、その場所は字開地で、現在地とほぼ同一地であると思われる。

写真71 川面尋常小学校校舎 大正期
(市立宝塚小学校提供)


 三十七年五月六日落成式が挙げられた。その模様を宝塚小学校「沿革誌」はつぎのように記している。
  五月六日午前十一時ヨリ校舎新築落成式ヲ挙行ス 阿江郡視学郡長代理トシテ山田伊丹署長ト共ニ臨席シ小浜校職員 村会議員 郵便局長 役場吏員 各区長 丁(町)惣代等数十名参列セリ
  先ツ君ガ代ノ唱歌ニ次ギ藤岡校長ノ勅語奉読 郡長ノ式辞 中野建築委員長ノ事務報告 来賓ノ祝詞 田川村長ノ答辞等数番ニシテ〇時二十分式ヲ終ル
  式後参列者一同ニ折詰ニテ饗応ヲナシ村民一同ハ運動場ニ於テ汲ミ飲ミノ大宴会ヲ催シ 午後七時頃各自歓ヲ尽シテ散開セリ
  翌日 新校舎ノ縦覧ヲ許シ 教育品ノ展覧会及ビ児童ノ運動会ヲ催シタリ
 と、当日の村民の喜びをほうふつとさせるものがある。
 昭和三年四月二十一日、小浜村立宝塚尋常高等小学校と改称されるまで、川面尋常小学校として続いて来た。
 小浜小学校は明治三十七年に二階建新校舎が竣工し昭和八年まで使用された。三十八年には補習科をおき修身・国語・算術を教えた。四十年には二カ年の高等科が加設され、小浜尋常高等小学校となり、これまで稲野・伊丹・中筋へ通学していた不便が解消された。四十四年には手工科を設け、また藪地一反八畝を買収し十月より運動場として使用した。日露戦争後就学率が向上し、生徒数が増加したので三教室を増築し、翌年高等科に農業科を設置して、畑地五畝歩を借入れ農業実習地とした。大正四年には村立裁縫学校を設け、二階講堂を教室とした。五年には貧窮児童救護会を組織し、就学を助けた。

写真72 小浜尋常高等小学校校舎 大正期
(市立小浜小学校提供)