良元尋常小学校は明治二十七年四月、三、四学年に裁縫科を課し、また裁縫専修科をおき、同年五月には補習科をおいた。明治十九年二月すでに西宮高等小学校組合に加入していたが、三十五年四月高等科を併置して、良元尋常高等小学校と改称した。この年字棟方(むねかた)に校舎を新築、建設費は八三〇七円四五銭七厘であった。
明治三十六年ころから苗代田螟虫(めいちゅう)卵採集が人手不足のため小学生の仕事となり、大正三年ころまで毎年六月初旬から下旬にかけておこなった。尋常科三学年以上の児童を引率し体操科の時間の一部を利用、また放課後も適宜採集させた。村農会より、三十九年は一〇円二〇銭、四十一年は一二円の奨励金が与えられたので、半紙を購入し生徒に与えた。採卵数は三十九年に八一五四個、四十一年は六万三一三八個に達したという。
三十八年には高等科第三、四学年男子にのみ農業科を設けた。また校長住宅を新築するとともに、十一月には約二畝歩の学校園を設けた。三十九年四月に小林むら共有地三〇〇坪を無料で借り、当時村会議員であり農園を経営していた平塚嘉右衛門の設計になる果樹園を設けた。四十一年三月には二階建一棟が増築され、小学校令による農業科を高等科に設け、男女とも学習させた。大正元年四月校地の隣接地の田六畝歩余を借地料一石で借り、児童の実習園とした。果樹園や改良米の実習園の設置は、良元村の商業的農業の発展と軌を一にしているが、これについては、この章の第四節に述べる。