良元村青年会の青年団への統合

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良元尋常高等小学校編集の「良元村誌」によれば、青年会創立満一〇周年にあたる三十二年(一八九九)には基本金をつのり記念式をおこなったところ、約二五〇名の来会者があったという。三十三年には会場入口を改造し体育奨励のため鉄棒を設置したり、三十四年にはオルガンを購入し、三十七年には楽隊を組織して出征軍人の送別や慰問をした。四十二年には夜学創立二〇周年記念文庫を設けたり、会員中の善行者を表彰したりした。兵庫県知事は小林青年会を賞し金二〇円を贈った。同三月この賞金をもとでに、小林むらの荒地を開墾し、二反歩の記念桑園をつくり、また山林を開いて竹林業を起こした。また大正四年からは共同苗代の作業を請負ったりして会の維持費にあててきた。同年の会員数は約一五〇名で、定まった仕事としては春秋二回氏神の境内に砂持工事をおこない、あるいはまた里道の修繕、水防、防火、夜学の経営、桑園の手入等をした。
 蔵人青年会の起源は古くてわからないが、明治三十年武庫川堤防が破壊した時、その防御工事に従事した。この時から会の組織が確立し三十七年に買入れた消火ポンプの保管や消防・武庫川堤防の工事に従事し、また夜学を経営してきた。しかし「地方ノモノ教員トナリテ教授セシ」もので、学ぶ者も少なかった。明治四十一年七月五日西蔵人は良元校の校長および担当教員を招待して夜学会発会式をしたところ、全員出席して盛会であった。

写真76 小林事務所および青年夜学会場改築工費 (小林土地株式会社所蔵)


 伊孑志(いそし)青年会は、古くから塩尾寺の世話をするための観音講にはじまり、山道の修理、堂塔の手入、参詣者の世話等をしてきたので積善組と改称した。会員は約四五名であり、植林や消火・水防・道路修繕・寺社の世話・夜学事業などをしてきた。
 鹿塩は明治四十二年、旧来の若中を改め二十数名で青年団を組織し、その仕事は水防・消火・試作田の作業等であった。鹿塩むらは従来夜学がなく、青年の気風が他部落に比べてややよくないので、たびたび奨励した結果、四十一年二月十一日に夜学の発会式をおこなった。
 良元村のこれらの青年会は、統一に関する協議のため、大正九年四月十七日良元小学校において各部落青年会長の会合をおこなった。同十一年四月三日には、良元村第一回青年大会が小学校で開催されているので、このとき良元村青年団が成立したと思われる。同十二年四月三日には青年団および在郷軍人会総会が小学校で開催され、十三年も同月同日に青年団総会が開かれている。
 大正十五年七月一日良元小学校で、青年訓練所開所式が挙行された。その直後七月九日には第八連隊の兵士一二〇名が校庭において夜営した。昭和二年(一九二七)一月二十九日には青年訓練所教練指導法研究会がおこなわれた。
 昭和三年五月九日には女子青年団総会が開かれた。これは大正十三年十月十五日良元村婦人会を開いたとき、同窓会女子部の処女会を創立し、十五年七月一日処女会を開いているが、これがもとになったものであろうか。同四年七月十一日には第一回成人講座が開講された。