宝塚への鉄道計画

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汽笛一声、新橋と横浜の間にわが国で初めて鉄道が敷かれたのが、明治五年(一八七二)九月のことである。この汽車は約二九キロメートルを一時間たらずで走ったので、当時の人々は、そのはやくて便利なことに驚き、陸蒸気(おかじょうき)とよんだのである。陸を走る蒸気船という意味であった。
 さらに二年あとの明治七年には大阪・神戸の間にも、官設鉄道が開通した。こうして近代化に向かって歩みはじめたわが国にとって、鉄道の開通はまさしく文明開化の象徴として迎えられたのである。
 しかし現在の宝塚市域に鉄道が敷かれるようになるのは、もっと後のことで、計画が立案されたのがようやく明治二十年になってからであり、じっさいに鉄道の開通をみたのが明治三十年のことである。鉄道が開通して、交通の結節点は、これまで伊丹・半町・池田や生瀬・三田などを結んでいた街道筋の宿場町の小浜から、池田・伊丹・尼崎・大阪や三田・福知山・舞鶴を結ぶ鉄道の宝塚へと移り、ここを拠点として新しい街づくりが始まるのである。