摂津鉄道も伊丹まで

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明治二十五年六月になって、こんどは「鉄道敷設法」という新たな法律が公布された。全国的に多数出ていた鉄道網計画は再検討され、鉄道起業ブームが再燃した。川辺馬車鉄道も翌二十六年六月、新たに設立された摂津鉄道会社に吸収され、従来の計画は、蒸気動力をもって運転する軌間二フィート六インチの軽便鉄道(軽便蒸気機関車)とすることに変更された。そして尼崎―伊丹―池田間、および伊丹―生瀬間の計二六・四キロメートルの路線敷設免許を出願した。伊丹―生瀬間には当然宝塚市域も含まれ、市域への鉄道敷設の夢は、ふたたびこの摂津鉄道に託されたのである。この出願路線は、将来軌間を三フィート六インチに改めることもありうるという条件で、同年十二月二十八日に免許された。
 このようにして摂津鉄道は正式に発足し、まず既設の尼崎―伊丹間を改築した。さらに伊丹―池田間に新線を延長敷設し、翌二十六年に尼崎―池田間が初めて開通したのである。停車場は伊丹・伊丹南口・塚口・長洲・大物・尼崎の六カ所、車両としては機関車四両・客車二〇両・貨車二〇両を使用し、阪鶴鉄道に統合される明治三十年まで、営業を続けた。

図7 官設・私設鉄道図


 しかし当初予定されていた伊丹―生瀬間は実現されないままで、宝塚への鉄道敷設の年来の夢は、またまたつぎの阪鶴鉄道へともち越されたのである。