摂津鉄道は、明治二十五年の「鉄道敷設法」の策定によって、設立されたが、こればかりでなく、明治二十六年はふたたび鉄道起業ブームが再燃した年であった。ここで先に明治二十二年四月から六月にかけて計画された京阪神と日本海の舞鶴を結ぶ六つの私鉄会社設立の動きが、再度活発化してきた。とくに「鉄道敷設法」第七条で、「第一期間ニ於テ其ノ実測及敷設ニ着手ス」るものとして、近畿予定線のうち、「京都府下京都ヨリ舞鶴ニ至ル鉄道」(京都―舞鶴ルート)と「兵庫県下土山ヨリ京都府下福知山ヲ経テ舞鶴ニ至ル鉄道」(土山―舞鶴ルート)の二ルートを比較線として指定されたためである。この取捨選択をめぐって京都・大阪・兵庫各府県各地域の利害関係が複雑にからみあい、対立していた。
そこで京都側は地元有力実業家小室信夫・浜岡光哲などを中心に、明治二十六年七月京都鉄道会社を設立出願した。また政府も前記二ルートのうち、前者の京都―舞鶴ルートをとるような気配をみせたので、京都鉄道会社は有利な申請運動を進めることができた。
このような事情を前にして、さきの土山―舞鶴ルートについては可能性がうすれ、これとは別に大阪および兵庫県の有力者が合議のうえ、大阪から舞鶴への別線を計画した。阪鶴鉄道会社がそれで、京都鉄道の申請より一月おくれの二十六年八月、摂津鉄道主要株主の小西新右衛門に、住友吉左衛門・松本重太郎・田中市兵衛などの大阪財界人を中心とし、それに大阪財界の重鎮土居通夫を発起人総代として会社設立を出願した。この計画によれば路線は大阪―神崎―伊丹―宝塚―三田―福知山―舞鶴を結ぶものであった。
さらにまた、これとは別に、大阪から池田―園部―船岡を経て舞鶴に達する摂丹鉄道会社も、大阪財界の岡橋治助らを中心に、路線の申請を出した(摂丹鉄道は二十八年十月却下され、二十九年九月再出願したがこれも三十年五月に却下された)。
これら京都・阪鶴・摂丹の三鉄道会社が、舞鶴をめざしてはげしい請願合戦をくりひろげたが、摂丹鉄道は京都鉄道と提携するにいたり、本命は京都・阪鶴両鉄道で争われることになった。その結果出願一年後の二十七年七月、政府は京都鉄道に対して認可を与えることに決定した。それに対し、阪鶴鉄道には大阪―神崎間は官設鉄道と重複し、福知山―舞鶴間は京都鉄道に免許を与えたという理由で、この両部分については許可せず、ただ中間の神崎―福知山間についてのみ、京都鉄道と並存しうるものとして認可されたのである。結局この舞鶴をめざしての競争で京都鉄道の方に軍配があがり、阪鶴鉄道は当初の計画よりは後退して、首尾の部分が切断された形で、まったく「阪鶴」の名に価しない結果に終わったのである。しかしこれはともかくとして、宝塚にとっては鉄道敷設の夢はよりいちだんと現実化の方向にむかい、あとは鉄道敷設の具体化を待つばかりとなったのである。