明治二十六年の阪鶴鉄道会社設立計画によれば、前述の土居・住友・松本・田中・小西らの株主を中心に五七人が設立発起人となり、発起人総代は土居通夫であった。株主は小西新右衛門三七八二株、住友吉左衛門二〇〇〇株を筆頭に、株数六万二三〇〇株で、資本金四〇〇万円であった。宝塚市域で株主に名のあがっているのは、境野村の谷新太郎(二八二株)、安倉村の中西延次郎(一六七株)・同田川善近(一六七株)の三人で、いずれも発起人にも名をつらねていた。田川善近は当時の小浜村長でもあり、これによって宝塚市域の村々でも阪鶴鉄道にかける期待の大きかったことがわかる。
二十七年六月、「起業目論見書」により、「既成官線神崎停車場ヨリ有馬郡三田町及多紀郡篠山町近傍ヲ経テ、京都府下天田郡福知山町京都鉄道株式会社線停車場ニ至ル鉄道ヲ敷設シ運輸ノ業ヲ営ムコト」を出願し、翌七月に仮免許状をうけた。さらに翌二十八年十月に創立総会が開かれ、役員を選出し、社長に土居通夫が就任した。翌二十九年四月三十日には免許状が下付され、さっそく実地測量や土地買収・株式募集に着手した。このとき欧米の鉄道視察から帰ったばかりの山陽鉄道技師長の南清が総務顧問として招かれた。彼はのち社長として会社経営に手腕を振うことになるのである。
こうしてきびしい条件のもとで阪鶴鉄道は発足したが、まず第一に既定方針である神崎―池田間の摂津鉄道の既成線の買収にとりかかる一方、摂津鉄道の軌幅が川辺馬車鉄道以来の二フィート六インチを官線と同じ三フィート六インチに改める工事がなされた。翌三十年二月、阪鶴鉄道は摂津鉄道会社の資本金二四万円をはるかに上回る三一万三六七三円で既成線を買収した。同年四月には仮営業も開始され、十二月二十七日には池田―宝塚間七・四キロメートルが開通した。これは宝塚にとって画期的なことで、以後の宝塚の発展に大きな影響を及ぼすことになった。