阪鶴鉄道の国有化

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明治三十九年の「鉄道国有法」の公布により、阪鶴鉄道も他の一六私鉄とともにその買収の対象となった。この法案作成のために調査委員会が設けられたが、同委員会が提出した「鉄道国有ノ趣旨概要」によると、鉄道国有による大きな効果として、(一)運輸の疎通、(二)運搬力の増加、(三)運賃の低減、(四)設備の整理統一、あげている。また日露戦争終結後のこととて、当時一三億円に達していた戦時外債を整理するうえでも、鉄道を国有管理にしておくことが必要であった。なぜなら、私設鉄道会社の有利な株式を外国人に買収され、外資の進出を許すよりは、国家管理によってこれを未然に防ごうとする意図もふくまれていたのである。
 こうして鉄道国有法が公布され、買収期日は四十年八月一日と決定した。買収価額については同法第七条により、建設費以内にすると協定された。具体的には三十五年度から三十七年にかけての三カ年の収益平均額を二〇倍した額となっていた。しかし阪鶴鉄道では、この期間は三十七年十一月の舞鶴線開通後わずか一一カ月を経過したにすぎず、前記三カ年の期間の大部分が福知山までにとどまっていた不利益を主張して、三十九年十月、政府に意見書を上申した。さらに同法第一条の但書によって、同社を適用除外されたい旨を述べ、のち再度陳情に及んだ。つまり同法第一条では、一般に運送用の鉄道はすべて国有とするが、「一地方ノ交通ヲ目的トスル鉄道ハ此ノ限ニアラス」という但書がついており、この除外例の適用を願いでたものである。
 しかし結局、当初の予定どおり四十年八月、同社鉄道および兼業に属する海運関係資産をあわせて買収されることになり、それによって管轄が鉄道庁のもとで、官設鉄道「福知山線」として国有化されたのである。のち四十二年五月になって、その買収価額は鉄道部門七〇〇万九五一三円七七銭四厘、兼業部門八五万三一〇二円五〇銭一厘と決定した。
 また京都鉄道については、これを買収したうえで、政府は舞鶴線の未完成部分(園部―綾部間)を開通させ、さらにそれを山陰縦貫線(福知山―出雲今市間)に連結させ、四十五年三月に京都―出雲今市間の全線を開通させて、ここに山陰本線が完成した。この山陰本線の出現によって、またもや福知山線は幹線鉄道としての地位を奪われ、ふたたび神崎―福知山間のローカル線に格下げされたのである。国有化に反対して「阪鶴鉄道ハ将来園部・綾部間及山陰本線落成ノ暁ニハ忽チ山間ノ一線路ニ過キサルモノト為ルヘシ」という当初の懸念が、ここに現実になってあらわれたものといえよう。

写真84 阪鶴鉄道時代のレール
国鉄中山寺駅構内にある